落合楢原地区の全面買収

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土地区画整理事業を併用することにより、多摩ニュータウン区域内の全集落が全面移転になることは避けられたのであるが、意に反して全戸が移転せざるを得なかった地区もあった。多摩センター開発地区として都市センター用地とされた落合楢原地区である。楢原の集落は、現在、多摩中央警察署、東京ガス、東京電力、多摩中央郵便局などが建ち並ぶあたりから南の山の方に向かって入り込んだ谷戸に立地する七戸の小集落であった。小泉国平家は、この集落でおよそ三町歩の田・畑・山林を所有する専業農家だったが、用地買収に応じていなかったため、この地区だけが引き続き全面買収の対象になっていることへの対応が遅れていた。当時、小泉家の雄三・アサ夫妻は四〇歳前後の働き盛りで蔬菜づくりに励み、農業を続ける意志が強く、日本住宅公団の用地買収担当者には「ウチで農業できるだけの農地を交換みたいに確保してもらえるんだったら引っ越します」と主張していた。しかし、施行者側には代替農地のあっせんを行う用意はなかった。交渉はこじれ、担当者からは「そんなに農業をやりたかったら北海道へ行け」とか「那須へ行け」とか、「おじいちゃん、ここの家の柱にしがみついたって、我々はやりますから」という言葉まで飛び出したという(小泉アサ氏からの聞き取り)。
 小泉雄三ら楢原地区の七人は、昭和四十二年十一月二十七日に「南多摩ニュータウン地区追加買収地区変更に関する陳情」を多摩町議会に提出した。楢原地区も「一般地区と同様に区画整理地区として再計画して」ほしいという趣旨であった。この陳情は都市計画委員会に付託され、審査された。「委員会審査報告書」(多摩市議会蔵)によれば、審査のなかで、施行者はこの時点での計画変更の意思はないとのべ、町長からは四十一年十一月に事業決定を見ており「当時の町議会はこれを了承済みであるとの発言があった」という。陳情者のなかで小泉雄三は「たとえ三~四反に減っても集約的経営で農業を続けていきたいと強い要望を述べた」。結局、事業決定から時間がたちすぎていることをおもな理由に、委員会はこの陳情を不採択としたが、一、代替地のあっせんに努めること、二、補償、買収等について、この地区が全面買収の対象となった特殊な事情を考慮して、極力優遇措置をとること、三、生活再建措置のために役場内に窓口を設け、住民の相談、指導にあたり、町政の円滑化を図ることの三項目の意見を付した。この意見は、昭和四十三年二月十九日に横倉真吉議長名で、富沢町長に申し入れ書として提出されている。
 結局、楢原の七戸はそれぞれ個々に貝取や落合山王下などの優先分譲地に移転し、ばらばらになった。小泉雄三の農業継続の希望は実現せず、先にのべた小泉茂一の請願にともに名をつらねて団地内商店出店のあっせんを受け、同時に、土地売却代金で相模原市内の農地を購入し、しばらく耕作も続けたという(小泉アサ氏からの聞き取り)。
 多摩ニュータウン開発の影で、全面移転を余儀なくされた集落があったことは、地域の記憶としてとどめておかなければならないだろう。また、落合唐木田地区の高村家のように、多摩ニュータウン開発を機会に神奈川県愛甲郡愛川町三増に一家で移転して、新天地でそ菜生産の再出発をはかった農家があったことも忘れてはならない。移転しないで神奈川県内の遠隔地に農地を求めた農家も数軒あった。

図2―5―12 開発前の楢原の景観(昭和44年頃)