多摩町では、この緊急の課題の解決に向けて、多摩ニュータウン起工式をひかえた昭和四十四年五月から六月にかけて、政府、衆参両議会、東京都、都議会、施行者の関係者に陳情と請願を行った(「新住宅市街地開発法による開発に伴う地方公共団体に対する財政援助につき特別措置を要望する陳情書(請願書)」、資四―329)。この陳情書は、町役場の試算で「向う十か年に概ね一〇〇億円以上の赤字が予測」されるので、「新都市開発の重大なる問題として、特別立法等による特別措置を講」じることを強く求めたものだった。東京都議会は同年六月九日にこの請願を採択した。
日本住宅公団では昭和四十四年九月に多摩ニュータウンの住宅建設に着工し、翌四十五年の八月に第一次入居を開始する予定で、四十四年の六月から多摩町と新住法第二六条にもとづく具体的な話し合い(二六条協議)に入った。多摩町の試算によれば「同町の財政負担は、公共施設用地買い取り分が原価で四二億円、二年据えおき十年償還の金利を含めると約六一億円」、これに小中学校、保育所、給食センター、消防署などの公共施設建設費を加えると、金利込みで約一二五億円にのぼることが予想され、さらに、幼稚園、図書館、公民館、ごみ焼却場などの費用が数十億円かかる。多摩町では「七月末、公共施設用地の無償供与、小中学校施設費引き受けの三分の二補助を要求して公団の工事プログラムに〝待った〟をかけ」、建設着工は延期された(『毎日新聞』昭和四十四年十一月二十七日付)。
富沢町長は「財政規模が小さな自治体でありながら、行政区域の六割も一度にニュータウンとして開発しなければならない多摩町のような場合には、特殊性を考えて別扱いにすべきではないのか」と強い態度を示したが、いっぽう公団側は多摩町で「前例を作りたくない」と譲らず、両者の主張は平行線をたどった(『朝日新聞』昭和四十四年十二月九日付)。当時、多摩ニュータウンの建設をめぐっては、この地元自治体の財政負担の問題にかぎらず、新都市センター株式会社の運営をどうするか、職住近接をいかにすすめるかなど問題が山積しており、日本住宅公団、東京都、関係市町の意見がまとまらなかった。このため、翌四十五年一月二十二日に、美濃部都知事が主催者となって東京都南多摩開発計画会議を発足させ、ここで多摩ニュータウン建設にかかわる基本方針、基本計画、その他の重要事項について、施行者と各自治体が協議することになった。
結局は、二月十三日の東京都南多摩開発計画会議で、最初に建てる予定の「小学校二校、中学校一校については、用地を無償で多摩町側に貸与し、建物などについては日本住宅公団が建設し、建設費については」、今後、公団、東京都、多摩町の三者で話し合うことで合意をみて、暫定協定が結ばれた(『毎日新聞』昭和四十五年二月十四日)。半年以上にわたる多摩町の抵抗のすえ、住宅建設着工の準備がようやく整ったのである。
富沢町長は三月の町議会定例会で、この協定について説明した。この協定によると「学校用地については無償で、学校の建物については一応現在の規定では六・五パーセントの賃貸料を払うことになって」いるが、「支払いが可能である場合には払うけれども、可能でない場合には払えないということについて、施行者である住宅公団、並びに東京都の了承を得て」いるというのであった。また、教育や財政をめぐって町に重い負担が予想されることについては、「私と議長と、東京都知事、副知事、総務局長列席のもとに会見を行っ」て、「そこで最終的な責任は東京都がもつという言明を得」ているので、それを信じているとのべ、同時に、「私どもの自治体といたしましてもできるだけの努力を行」わなければならないと決意を表明した(町議会議事録)。
しかしその後も、多摩町・市は多摩ニュータウン開発にともなう行財政問題に悩ませられた。多摩ニュータウンは、多摩町・市や住民からの要求に応じながら、開発の手法や計画の内容を修正していくことになる。