図2―5―17 区画整理事業実施前の荻久保集落
多摩町が昭和四十六年(一九七一)十一月一日の市制施行に向けて準備をすすめているさなか、同年八月六日に開かれた南多摩都市開発計画会議で、町田市の大下市長は、行政界一元化問題が「一挙に解決できないなら、段階的に合併をすすめるべきだ」と主張し、注目された。「新しい住民がどんどん入居してくる前に合併していないと、問題がますますむずかしくなる」ので、早く解決しておくべきだというのである。新聞記事は、大下市長が「非公式ながら、同市の区域をニュータウンの行政区域に編入してもよい意向を、多摩町などに伝えている」と報じている(『朝日新聞』昭和四十六年八月十日付)。
このような町田市長の態度を受けて、多摩町の議会関係者は小野路地区住民との協議に入った。その後、地域住民は町田市・多摩市と公式の協議を行いながら部落集会を重ね、昭和四十七年(一九七二)十一月八日に「総意をもって将来のため、多摩市へ行政界の変更を希望することを決定」した(『議会だより』昭和四十八年八月十一日)。そして十二月二日に町田市に、四日に多摩市に、四集落の有権者一八一人の連署で、行政界の変更を求める陳情と請願が提出された(資四―337)。多摩市議会はこの請願を十二月十四日の定例会で全会一致で採択した。町田市議会では総務常任委員会審議に付託され、翌四十八年二月二十二日の委員会で採択されたのち、三月九日の定例会で採択された。
請願が採択されると、行政界の変更に向けての両市の公式協議が始まった。町田市長はニュータウン区域の境界線をもって両市の行政界としたいとの意向であったため、その意向に沿うなら、多摩市域にあってニュータウン開発区域外にあたる国際カントリークラブゴルフ場の敷地を町田市に編入することになる。この問題について、同年四月二十七日と五月二日の多摩市議会全員協議会で検討され、「ゴルフ場が町田市へ移ることで約六〇〇万円の税収が減る」けれども「『領地割愛を求めたことにたいする持参金』としてならという認識で、賛成多数で了承された」という(松尾精文「大規模開発に起因する行政界変更の社会過程について」『青山学院大学一般教育「論集」』三〇号・この項の記述の多くは同論文に負っている)。
これに対して昭和四十八年(一九七三)六月十日、国際カントリークラブ敷地の土地所有者ならびに多摩市落合地区住民一〇三人から、多摩・町田両市議会に、行政区画変更反対の陳情が出された(資四―340)。この土地には居住者はいなかったのだけれど、落合地区の人びとにとっては「心の中に我が郷土の地として強い愛着となって生きつづけて」おり、「精神的にも心理的にも切離すことの出来ないところ」だから、「その行政区はあらゆる面で多摩市にあるのが本来の姿であり、自然で最も適当で」あるという主張であった。しかし、七月十四日の多摩市議会全員協議会は、この件はすでに落合地区の住民に充分説明ずみで了承されているし、町田市との境界変更は多摩ニュータウンの境界線をもって整理すべきであることを再確認した。
また、同年六月十四日には、多摩ニュータウン区域外の上小山田・下小山田地区住民(七世帯)と土地所有者から、自分たちの地域も多摩ニュータウンと一体となって生活を営みたいと、町田市長に対して、多摩ニュータウン事業区域への編入と、それにあわせて多摩市への編入を希望する旨の陳情が出された。町田市長が七月三日に、この陳情に副申を添えて都知事に提出すると、都知事は五日に「陳情の趣旨をくみ、多摩ニュータウン区域に編入することを配慮する」と回答した。この地区は多摩丘陵の南斜面であったが、土地区画整理事業のなかの造成で地形を変更させて、多摩ニュータウン区域と一体化し、多摩市への編入を行うことになった。
図2―5―18 行政界の変更区分図(松尾精文「大規模開発に起因する行政界変更の社会過程について」より)
多摩市議会は、七月二十日の臨時会で、落合地区住民からの陳情を不採択にし、第六九号議案「市の境界変更について」を全会一致で議決した(資四―342)。町田市議会も同月三十日に臨時会を開き、全会一致で議決した。こうして、町田市から多摩市には、六四世帯・三二四人の住民が転出し、約二〇二ヘクタールの土地が編入され、多摩市から町田市には、約四・七ヘクタールが編入されることになった。この行政界変更は、同年十月十五日の都議会定例会で議決され、十一月二十七日に自治省により告示され、十二月一日に施行された。これに先立ち、十一月二十四日には町田市鶴川農協で、移籍する住民と町田市とのお別れ会が開かれ、大下町田市長から「多摩市へ移っても隣人としての交際を続けてほしい。市はいつまでも町田市民として温かく迎えます」との送辞と、町田市の施設が町田市民同様に利用できる市民優待券が贈られた(『朝日新聞』昭和四十八年十一月二十五日付)。多摩市に編入された地域の一部は、市の「南」端にある旧小「野」路地区ということで、「南野」の名称がつけられている。
図2―5―19 境界変更を祝う立て看板(尾根幹線用地)
この境界変更が実現した背景には、四集落に「地元のまとまり」があり、「それぞれ自生的統合がしっかり機能していた」ことがある。また、地域の代表者となった人がかつて鶴川村の議員をつとめており、「多摩の議員に親類縁者がいた」ため「多摩市側との意志の疎通や、地元住民の意見のとりまとめに重要な役割を演ずることができた」とも言われている(松尾「大規模開発に起因する行政界変更の社会過程について」)。