「陸の孤島」の生活

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多摩ニュータウンへの第一次入居がはじまったのは、昭和四十六年(一九七一)三月二十六日。この日からは、連日、人びとの新天地への希望や夢を載せて、トラックや乗用車が真新しい団地群をめざして集まってきた。このとき諏訪・永山地区で供給された団地は日本住宅公団の賃貸・分譲を合わせて二二五八戸、都営団地が四三二戸で、約八〇〇〇人が一気に転入することになった。

図2―5―20 諏訪・永山団地の引っ越し風景

 四月二日付の『毎日新聞』は、多摩ニュータウンに引っ越してきたある家族の一週間を、働く主婦の藤原みち子さん(三八歳)の日記をもとに描いている。この記事をもとに、ニュータウン生活のはじまりのようすをみてみよう。藤原さん一家が入居したのは、三月二十六日。この日の日記の冒頭には「待望の日が来た。午前十時十五分、世田谷区用賀のアパートをトラックで出発」とある。「公団に申し込んで一六回目に当選。環境整備が遅れていたのには少々ガッカリさせられたが、ともかく新居への引っ越しとあってみんな大張り切り」だった。二日目の二十七日は長女の初出勤の日。「午前五時半に起き、窓をあけると、広々とした多摩の丘。すがすがしい外気が飛び込んできた。車の排気ガスや振動に悩まされた世田谷の家に比べると、ここの環境はやはりバツグン」とつづられている。三日目の二十八日に住民手続きをした。「日曜日なので入居者が殺到、団地内はたいへんな混雑ぶり。住民登録、長男の転校届けを町役場に出す」。四日目の二十九日。「風が強い。入居の日もそうだったが、団地内は赤土がむき出しなので大変なほこり。窓はもちろん、外では目もあけられないほど。夕方、洗たくものをいくらはたいてもホコリがとれない」。五日目の三十日は「私の初出勤。夫の車で長女とともに送ってもらう……一時間半もかかった……やはり交通の不便さをひしひしと感ずる」。四月一日、一週間を振り返って、まだ「本当の充実感、満足感はわいてこない」が、「いままでの家に比べれば、格段の差がある。やがてはいろいろ周辺も整備され、もっと住みよくなることだろう―私はニュータウンに期待している」と結ばれている。
 この日記にもふれられているように、多摩町役場では転入者ラッシュに対応するため日曜・祭日も窓口を開いて対応した。転入事務を扱う住民課は「これまでの六年分の仕事を三週間足らずで」やる勘定であり、課長以下一八人の職員と八人のアルバイトが連日九時過ぎまで残業。「それでも住民基本台帳を作るのが精いっぱい」で、四月二十五日には町長選・町議選を控えていたのだが、「選挙どころではない」状態であったという(『毎日新聞』昭和四十六年四月六日付)。