図2―5―22 聖蹟桜ヶ丘駅~落合中沢を運行開始した頃のバス
昭和三十年代後半、多摩村は都心のベッドタウンとして、聖蹟桜ヶ丘駅周辺地域などで宅地化が急速に進み、同駅を起点としたバス路線が次々と開設されていった。聖蹟桜ヶ丘駅から、昭和三十三年(一九五八)六月、町田市の小田急線鶴川駅まで、三十七年三月には連光寺地区まで、同年八月には桜ヶ丘四丁目までそれぞれバス路線が開設された。昭和四十二年にはJR山手線のように、桜ヶ丘団地丘陵の裾野を大きく取り囲むように周回運行する「桜ヶ丘循環」路線も開設された(『多摩町誌』・『京帝たより』一一三号 昭和三十七年九月十五日付)。
聖蹟桜ヶ丘駅の利用者は年々増加していったが、バス停がある駅前広場は、わずかにバス三台分ほどの広さしかなかった。それに加えて、多摩ニュータウンへの鉄道開通が、昭和四十六年(一九七一)三月に予定されている諏訪、永山地区の初入居より遅れるため、入居者を最寄りの聖蹟桜ヶ丘駅へバスで運ぶ必要が生じていた(『読売新聞』昭和四十三年二月二十四日付)。昭和四十三年四月、京王帝都電鉄(現京王電鉄)の輸送力増強計画に基づき(『京王ニュース』一五九号 昭和四十三年四月一日付)、聖蹟桜ヶ丘駅の全面的改修が始められた。また同時に、駅前の交通混雑の解消を図り、ニュータウン入居に備え、バスと電車の乗り継ぎを便利にするため、駅北口にバスターミナルが設置されることとなった。翌四十四年五月、新設された聖蹟桜ヶ丘駅は開業し、バスターミナルは同年六月から使用開始された。そこを起点に一八路線、一日三九五本のバスが運行されるようになった(『京帝たより』一九七号 昭和四十四年六月十五日付)。
昭和四十六年(一九七一)三月、諏訪、永山地区に多摩ニュータウン初の入居が始まり、同時に聖蹟桜ヶ丘駅へのバス路線が開設されている。この路線は、都心方面に通勤通学するニュータウン住民の輸送に重点が置かれ、聖蹟桜ヶ丘駅間直行の急行バスが朝夕運行していた(『京帝たより』二二二号 昭和四十六年五月二十五日付)。しかしながら、多くのニュータウン住民が、バス運行状況に対し不満を感じていた。そのため、聖蹟桜ヶ丘駅発の最終バスの大幅な時間繰下げなどをバス会社に要求する抗議集会をひらいている(『朝日新聞』昭和四十七年六月一日付)。
昭和四十九年(一九七四)十月、京王相模原線が多摩センター駅まで開通するとともに、多摩センター駅と聖蹟桜ヶ丘駅間にバス路線が開通した。さらに、昭和五十五年四月には、多摩センター駅にも一九か所の発着所を備えたバスターミナルが完成している。市内のバスは市民の身近な足として定着していき、とくにニュータウン住民にとっては、生活の重要な交通手段としての役割を担うようになった。
図2―5―23 町内バス路線
〔図中の「落合」は「落川」の誤り〕
『多摩町誌』より作成。
注)停留所名は、『多摩町誌』(S45年発行)の記述にもとづいた。
市内のバス網が徐々に整備されていく一方、交通量の増加にともなって、昭和三十年代後半から大栗橋交差点付近で、とくに朝のラッシュ時の都心方向への交通渋滞が激しくなり、大きな問題となっていた。昭和四十年代半ば以降、多摩ニュータウン開発に関連して、川崎街道と鎌倉街道の整備は進展していたが、交通渋滞は年々激しさを増していった。そのため、バスも交通渋滞に巻き込まれ、聖蹟桜ヶ丘駅への到着が大幅に遅れるようになり、通勤通学の足に大きな影響をおよぼしていた。
昭和五十一年(一九七六)三月、貝取、豊ヶ丘、落合三・四丁目地区へ入居が開始され、多摩センター駅間にバス路線が同時に開通した。駅までの通勤通学の足は確保されていたが、多摩センター駅周辺には商店などが全くなかったことから、買い物などには非常に不便であった。そのため、同地区からバス路線を市役所経由で聖蹟桜ヶ丘駅まで延長運行すること、駅前商業施設「グリナード永山(昭和四十九年十月オープン)」がある永山駅まで路線を新設することなどが要望されるようになった。昭和五十一年八月、豊ヶ丘地区へ第二陣の入居が行われたため、豊ヶ丘四丁目~多摩センター駅の路線は増発され、その半数の便が市役所経由で聖蹟桜ヶ丘駅まで直通運行を始めている(『読売新聞』昭和五十一年八月二十九日付)。
多摩ニュータウン住民などからの要望に対し、バス会社は要望のすべてをすぐに実現化することはできなかった。バス利用者が通勤通学の時間帯にのみ集中し、昼間の利用が少ないなど、採算に見合わないことがその大きな原因であった。こうしたことから、昭和五十六年(一九八一)、交通問題全般について住民からの要望をくみ上げ、調整をはかることなどを目的とした「多摩市交通問題連絡協議会」が発足している(『たま広報』二九七号 昭和五十六年二月二十日付)。既存地区の人口増加や多摩ニュータウンの新たな地区への入居とともに、バスの増発やバス停新設などのバス路線整備は行われていったが、住民からの新路線開設などの要望は後を絶たなかった。
図2―5―24 開業直後の聖蹟桜ヶ丘駅のバスターミナル(昭和44年6月)