ニュータウンへの鉄道新設

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昭和四十年(一九六五)十二月、多摩ニュータウン開発が都市計画決定される。ニュータウン入居者の都心方面への通勤通学手段を確保するため、大量輸送可能な公共交通機関として、都心とニュータウンとを結ぶ鉄道敷設が、ニュータウン開発には必要不可欠な条件であった。
 多摩ニュータウン開発の検討が重ねられていた昭和三十九年(一九六四)、京王帝都電鉄(現京王電鉄)、小田急電鉄、西武鉄道の三社が、それぞれニュータウン区域への路線免許を申請した。京王の申請は、京王多摩川駅から稲城町を抜けてニュータウン区域を東西に横断し、現JR橋本駅を経由して神奈川県津久井町へ達する路線であった。小田急の申請は、世田谷区の小田急線喜多見駅を起点に狛江町、調布市、稲城町を通過し、多摩町に入って現在の多摩ニュータウン通り沿いに進み、さらに八王子市由木地区、橋本駅を経由し、神奈川県城山町まで向かう路線であった。一方、西武鉄道は、現JR中央線武蔵境駅より西武多摩川線を利用して南下し、ニュータウン区域へ路線を延伸させる計画であった。
 昭和三十九年(一九六四)五月、多摩ニュータウン内の鉄道輸送に関する調査が報告された。その報告では、ニュータウンへの路線敷設条件として、都心への直通運転、道路との立体交差などが示された。西武鉄道の計画は、それらの条件を満たすことが困難なため、免許申請を取り下げている。
 昭和四十一年(一九六六)七月、京王は稲城中央~相模中野間の、小田急は喜多見~城山間の路線免許をそれぞれ受けた。しかし、翌四十二年六月、小田急は起点などを変更するため、新たに路線申請を行った。多摩川へ新たに架橋工事を行うと、巨額の建設費を要することや、狛江町内での用地買収が難航していたことが変更の大きな理由であった。昭和四十二年十二月、小田急は川崎市百合ヶ丘を起点に、終点を多摩に変更した路線免許を受けた。そして、両路線はニュータウン開発の進展とともに、着工段階で現行ルートへと落ち着いた。昭和四十一年十月に着工していた、京王よみうりランド駅までの延伸工事が終了し、四十六年四月に京王相模原線の一部区間として開通した。

図2―5―25 多摩ニュータウンの鉄道路線および免許路線
『小田急五十年史』、「パルテノン多摩」企画展(H10)展示パネルより作成。
注)免許路線と現行路線とが重なる場合、現行の方を優先して表現した。

 多摩ニュータウンへの鉄道敷設の準備は整ったが、京王、小田急両社は、経営上の理由からニュータウンへの鉄道延伸に慎重な姿勢を取っていた。それには、おもに次のような事情があった。入居者数が少ない時期にニュータウンへ鉄道敷設すると、巨額の先行投資を必要とする。また、鉄道を開業しても、朝夕のラッシュ時にだけの、一定方向にのみの乗客集中が予想されていた。敷設工事に際し、交通渋滞回避や交通安全上の問題から、路線の立体化が要求されるため、建設費が割高となるなどがその理由である。このような事情から、京王、小田急両社は、着工に踏み切るには、国などからの強力な後押しが必要であると主張していた。
 昭和四十六年(一九七一)三月、鉄道が開通しないまま、多摩ニュータウン初の入居が諏訪、永山地区で行われた。入居した同地区の住民のおもな足は、聖蹟桜ヶ丘駅までのバス路線であった。交通の不便さから、ニュータウンは「陸の孤島」と不名誉な表現で呼ばれるようになった。そのため、諏訪、永山地区住民は、ニュータウンまでの鉄道早期開通を強く望んでいた。
 こうした現状に、国としても早急に多摩ニュータウンまで鉄道開通させるため、鉄道会社に対する具体的な助成策を講じる必要に迫られた。様々な対策が関係各機関で取りはかられ、昭和四十七年(一九七二)五月、鉄道敷設に関係する大蔵・運輸・建設省間の合意が成立し、「大都市高速鉄道の整備に対する助成措置に関する覚書」が取決められた。そのおもな内容は、次のようなことであった。ニュータウンへの鉄道建設費に対し助成金を交付する。また、ニュータウンへの路線と継続する在来路線の輸送増強工事(複々線化工事、都心へ直通させるための地下鉄乗り入れ工事)も助成の対象とする。建設費用は二十五年間の元利均等で償還する。ニュータウン開発施行者側は、ニュータウン区域内の鉄道用地を、ほぼ買収した価格で鉄道会社に譲渡し、線路敷建設費用の二分の一を負担することなどが決定された。
 京王、小田急両社への具体的な助成策が決定したため、昭和四十七年(一九七二)九月、両社はともに多摩ニュータウンへの鉄道敷設工事に取りかかった。用地取得交渉のもつれや、折からのオイルショックによる資材不足などの影響で、建設工事は難航し、開業予定はともに遅れることとなった(『朝日新聞』昭和四十八年十二月二十三日付)。ようやく昭和四十九年六月、小田急多摩線が永山駅まで、そして、京王相模原線は同年十月に多摩センター駅までそれぞれ開通した。翌五十年四月には小田急多摩線も多摩センター駅まで開通している。
 京王相模原線には、快速、通勤快速の電車が運行し、また、早朝と深夜の一部を除けば、すべての電車が新宿駅まで直通運転されていた(『京帝たより』二七五号 昭和五十年十月二十日付)。さらに、昭和五十五年三月、京王相模原線は地下鉄の都営新宿線と相互直通乗り入れが可能となり、都心までの利用が一層便利になった。

図2―5―26 諏訪北公園付近の鉄道トンネル工事風景

 多摩ニュータウンまで待望の鉄道は開通したが、鉄道会社、駅利用者は互いに不満を持っていた。ニュータウン開発の大幅な遅れから駅利用者数が当初予想より少なく、また、昼間の利用が朝夕のラッシュ時に比べ非常に少ないため、鉄道会社の経営は非常に苦しかった。一方、利用者側は、在来路線に比べ運賃が割高なことや、小田急多摩線では通勤通学時間帯にしか新宿駅直通の電車が運行しないことなどに不満を感じていた。また、鉄道開通当時多摩センター駅には商店などが全く整備されておらず、駅周辺はまるで「ゴーストタウン」の様相を呈していた。そのため、駅利用者から早期整備が強く望まれていた(『読売新聞』昭和五十一年九月十六日付)。

図2―5―27 多摩センター駅周辺の風景(昭和51年6月)