駅前商業施設の変貌

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多摩ニュータウンが開発されるまで、市内の駅は聖蹟桜ヶ丘駅だけで、都心方面への多摩市の玄関口として発展してきた。昭和三十年代後半、当時の多摩村では、都心方面への通勤の便利さから宅地開発が急激に進行し、聖蹟桜ヶ丘駅の利用者数は年々増加の一途をたどった。また、昭和四十六年(一九七一)三月のニュータウン初入居までに鉄道が開通されないため、入居者は最寄りの聖蹟桜ヶ丘駅を利用することが予想されていた(『読売新聞』昭和四十三年二月二十四日付)。そうした増加する利用者への対応として京王帝都電鉄(現京王電鉄)は、昭和四十三年四月から聖蹟桜ヶ丘駅の全面改修を行った。線路がホームで大きくカーブしていたため、駅舎を北側へ約五〇メートル移転し、直線化された。さらに、線路とホームは高架にされ、周辺の踏切が廃止された。昭和四十四年五月に新装開業され、新駅舎北側にはバスターミナルが隣接し、昭和四十四年六月より使用開始されている(『京王ニュース』一七三号 昭和四十四年六月一日付)。

図2―5―28 改修移転される前の聖蹟桜ヶ丘駅(昭和43年頃)

 聖蹟桜ヶ丘駅の新駅完成にともない、駅周辺に大型店舗の出店が始まった。昭和四十四年(一九六九)十二月、駅高架下に一二店舗の「桜ヶ丘ショッピング街(現在の京王クラウン街に相当する場所)」が順次営業を開始している(『京帝たより』二〇三号 昭和四十四年十二月二十日付)。翌四十五年四月、町内に初めて大手スーパーの西友が開店し、また、同年六月、旧駅と新駅の間に「京王桜ヶ丘ショッピングセンター」が開設され、京王ストアと三七の専門店が開店した。それ以前に多摩町に総合ショッピングセンターがなかったことや、多摩ニュータウン開発の将来の進展などを見込んでの出店で、同ショッピングセンターの三・四階には娯楽施設として、四四レーンのボーリング場がそなわっていた(『京帝たより』二一〇号 昭和四十五年六月十五日付』。

図2―5―29 聖蹟桜ヶ丘駅周辺の風景(昭和46年3月)

 こうした駅舎移転、大手スーパーの出店や川崎街道の拡幅計画と、多摩ニュータウン開発による急激な聖蹟桜ヶ丘駅周辺の変貌に、地元商店では大きな危機感を募らせていた。そのため、地元商店は、昭和四十四年(一九六九)に「多摩商業協同組合」を結成し、同組合による駅前開発と、開設が予定されている多摩センター駅の商業施設への優先出店を町に請願するなどの対策をとった(資四―275・276・277・279)。
 昭和四十九年(一九七四)六月、小田急多摩線が永山駅まで、また、同年十月、京王相模原線が多摩センター駅まで開通した。翌五十年四月には小田急多摩線も多摩センター駅まで開通している。
 永山駅開業に合わせて、昭和四十九年(一九七四)十月、駅前商業施設「グリナード永山」がオープンした。グリナード永山は、新都市センター開発株式会社が昭和四十八年七月に着工した、大手スーパー、専門店、飲食店などが入店する総合ショッピングビルであった。さらに、銀行、郵便局などのサービス業も入居していた。同会社は、昭和四十五年三月、日本住宅公団(現住宅・都市整備公団)や銀行などが出資して、多摩ニュータウン区域の商業施設の建設と運営を目的に設立された。
 多摩ニュータウン各地区には、入居開始時に住民サービスとして、生活必需品を取り扱う「近隣センター(地区商店街)」がそれぞれ開店していた。そのため、グリナード永山開業に際して、近隣センターとの競合が問題になり、協議の結果、グリナード永山には高級品を取り扱う専門店が出店することで、両者の折り合いがついた。スーパーの出店については、営業面積の縮小、閉店時間の繰上げなどの条件がつけられた(『朝日新聞』昭和四十九年九月十二日付)。
 一方、永山駅とは対照的に、多摩センター駅には仮設のバスターミナルしかなく、駅周辺の商業施設の整備はかなり遅れた。多摩ニュータウン開発が当初計画より大幅に遅れたことが原因だった。そのため、おもに多摩センター駅を利用している五十一年三月入居の貝取、豊ヶ丘、落合三・四丁目地区住民から、同駅周辺の早期整備を強く要望する声が上がっていた(『読売新聞』昭和五十一年九月十六日付)。
 昭和五十二年(一九七七)九月、日本住宅公団(現住宅・都市整備公団)は、都市基盤整備と第一期ビル建設についての「多摩センター基本整備計画」を発表した。計画では、多摩センター駅南側に駅前広場を上下二層に建設し、上層を歩行者専用道路、下層をバスターミナルに分けて歩車道分離を図る。駅前からの歩行者用道路の延長上に中央公園を配置する。公害防止、省エネルギーの観点から、商業・業務施設や官公庁施設への地域冷暖房施設を整備する。地域環境に配慮するため、ごみの「真空集じん施設(現在の都市廃棄物管路施設)」も整備する。地域冷暖房や真空集じん施設は、電線や電話線などと一体的に歩道地下に共同溝として埋設整備することなどが示された。第一期ビルには、スーパー、専門店、銀行などが入る予定であった(『読売新聞』昭和五十二年九月三日付)。
 昭和五十五年(一九八〇)四月、多摩センター駅南側の二層構造の駅前広場、歩行者専用道路の一部、第一期ビル「丘の上プラザ」が完成し、盛大な竣工披露が行われた。同時に駅前広場には、バスターミナルも完成した(『読売新聞』昭和五十五年四月二十二日付)。丘の上プラザは、昭和五十三年十二月に着工され、大手スーパーと三三の専門店、二つの銀行が入居し、五十五年四月、いっせいにオープンした。開店初日はどこも大盛況で、銀行の窓口は、閉店時間を過ぎても行列が絶えなかったほどであった(『朝日新聞』昭和五十五年四月二十四日付)。

図2―5―30 多摩センター駅南口の風景(昭和57年)

 多摩センター駅周辺に商業施設が整備される一方、公益的施設の整備も進展し、昭和五十七年(一九八二)三月、多摩郵便局が開局し、同年四月、ガス・電力会社の営業所が相次いでオープンした。ガスによる地域冷暖房も同時に供給を開始している。また、翌五十八年二月、電電公社(現NTT)のサービスステーションが開局し、同年四月には共同溝を利用した「都市廃棄物管路収集センター」が稼働を始めている(資四―431)。