昭和四十三年(一九六八)十一月、東京都は、南多摩ニュータウン協議会の席上、清掃工場建設計画を正式に示した(『読売新聞』昭和四十三年十一月二十九日付)。その計画では、多摩ニュータウン全体の見地から、ごみ搬入のための立地や経済的効率などの条件を考慮して、落合地区の棚原、大松台(現唐木田二丁目)が建設用地に選定されていた。同年十二月、地元住民は、生活環境が侵害されることに加えて、事前に全く説明を受けていなかったことから猛反発の姿勢を示し、町に対し設置反対の請願書を提出している(資四―323)。
地元では、「落合ごみ焼却場反対連合協議会」を結成し反対運動を起こした。東京都と地元住民との交渉が再三行われた結果、条件付きの建設で両者は合意した。そして、昭和四十四年(一九六九)六月、「多摩ニュータウン清掃工場設置に関する地元との協定書」が結ばれた。しかしながら、合意の条件である地元の要望事項の実施は遅々として進まなかった(横倉舜三『多摩丘陵のあけぼの 後編』)。そのため、昭和四十七年十二月、多摩センター駅開業後二年以内に鉄道を延伸させ、地元に駅を開業させることや、福祉施設を建設することなどの事項を再確認した「多摩ニュータウン清掃工場開設に伴う協定」が結ばれている(資四―324)。
こうして用地選定の問題は解決したが、清掃工場の建設や完成後の管理運営についての具体的調整がまだついていなかった。昭和四十五年(一九七〇)十一月、関係する多摩・稲城町、八王子・町田市および東京都は、多摩ニュータウン開発施行者側との間に、清掃工場建設に関する「覚書」を交わした。八王子、町田、稲城は、同市町のニュータウン区域では当面入居が行われないため、建設費の負担に難色を示していた。また、同じ理由から、特定の事業を複数の市町村が共同運営する一部事務組合結成の話もまとまらなかった。しかしながら、最初にニュータウン入居が始まる多摩町が、単独で清掃工場を建設し、費用を負担することはほとんど不可能な話であった(『読売新聞』昭和四十八年一月二十三日付)。結局、多摩町が建設事業を行い、建設費、管理運営については別途協議することとなった(多摩市議会蔵)。昭和四十六年七月、多摩清掃工場は建設着工された。
多摩清掃工場は、全体計画のうちまず第一期分として、一日二十四時間稼働で一五〇トンのごみ処理能力を持つ焼却炉が二基建設された。ニュータウン開発の進展に合わせて、最終的には最大処理能力一日六〇〇トンにまで増設する計画であった。多摩清掃工場の特色は、とくに公害対策に重点が置かれた当時の最新技術で設計されていること、耐用年数が長めに設定されていること、さらに、ごみ焼却で発生する余熱を利用し、清掃工場内および公共施設での暖房や給湯に使用することが可能なことなどであった。
多摩清掃工場建設の進行とともに、先送りされた管理運営についての話し合いが持たれていた。八王子・町田・稲城市は、多摩市による単独運営を求めた。多摩市は、昭和四十一年一月から一部事務組合「多摩川衛生組合」で狛江・稲城市と共同で清掃事業を行っていた。この上多摩清掃工場の管理運営を引き受けることは、財政・技術面でも非常に困難であった。そのため、東京都と多摩市との協議が進められた結果、昭和四十八年一月、都側が、当分の間充分に援助する条件で市側が了解し(『読売新聞』昭和四十八年一月二十三日付)、同年二月、多摩市による多摩清掃工場の暫定的な管理運営が決まった。
昭和四十八年(一九七三)四月、多摩清掃工場は稼働を開始し、市内のごみすべてが運び込まれることになったが、ごみ排出量は処理能力を大きく下回る一日約四〇トンであった。多摩ニュータウン開発が遅れたため、計画通り入居が進まなくなり、ごみが当初想定していた量に達しなかったことがその原因であった。ごみ焼却炉の維持管理の点から、ごみの焼却には一定量を確保する必要があったため、試運転の段階より、国立・八王子・町田市から不足分のごみを搬入し操業していた(『朝日新聞』昭和四十八年二月二十六日、五月二十九日付)。
図2―5―31 多摩清掃工場周辺の風景(昭和51年頃)
市内のごみ排出量は、多摩清掃工場の処理能力をはるかに下回ってはいたが、昭和四十八年(一九七三)のオイルショックの影響で一時的に減少するものの、昭和四十年代以降、毎年確実に増加していった。昭和五十一年三月、貝取、豊ヶ丘、落合三・四丁目地区へ入居が始まるとともに、ごみ排出量も大きな伸びをみせた。市内の様々な統計結果を掲載した『統計たま』によると、昭和五十一年度のニュータウン区域からの可燃ごみの総排出量は、前年度比で一六七五トン、約三割も増加している。ごみ排出量は、その後も続くニュータウンへの入居、既存地区への人口増加とともに急増していった。また、大量消費社会になったことも、急増した大きな要因であった。こうしたごみ排出量増加の問題は、次第に、焼却後に発生する「焼却残渣」や不燃ごみの捨て場確保の問題へと移行していった。やがてこの問題は、都市化していく三多摩地域共通の問題となっていき、一層深刻化していった。
図2―5―32 市内の可燃ごみ排出量と総人口の推移
『統計たま』より作成。
注)1 斜線部はニュータウン区域分(区画整理事業区域も含む)。
2 総人口は各年10月1日現在。
注)1 斜線部はニュータウン区域分(区画整理事業区域も含む)。
2 総人口は各年10月1日現在。