住宅建設のストップ

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多摩町では、昭和四十六年(一九七一)三月の多摩ニュータウン第一次入居者を控えて、人口の急増と行政需要の高まりへの準備に追われ、財政状況はますます深刻になった。富沢町長は昭和四十五年八月二十七日に「多摩ニュータウンB1地区第一次入居に伴う財政援助方について」(資四―330)により、都知事に四三九八万円の特別援助を要請した。そのうち三三五一万円は新設小中学校の開校のための費用であった。当時の多摩町の財政状態は「入居者からの税収入等は全くない反面…ニュータウン関連の事務事業に大幅な負担を余儀なくされており」、町としては「東京都の特別援助によりこの問題を解決する以外に」途はないと判断して要請にふみきったのであった。東京都では「多摩ニュータウン建設計画の円滑な実施のため、振興交付金(調整交付金)の交付を内定した」が、これを「町の信頼と協調を得、都の施策の執行を担保した」もので、「都政全般からみれば、むしろ適時であり、また効率的な措置であった」とした(「多摩町に対する調整交付金の支出について」多摩市行政資料)。
 昭和四十六年十一月一日の市制施行にあたり、富沢市長は記者会見のなかで、「現在のような建設計画や財政措置では、学校や公共用地の確保、建設などができなくなる。市の試算では、五十六年度には一〇三億円の赤字になってしまう。都や国がもっと用地の確保や財政援助をしてほしい」と語った(『朝日新聞』昭和四十六年十一月二日付)。

図2―6―1 昭和40年代の歳出合計と教育費
『統計たま』より作成。

 昭和四十六年十一月二十五日、多摩市は「多摩ニュータウン事業の概要と多摩市に及ぼす影響」(多摩市行政資料)という文書をまとめ、問題点の洗い出しを行うとともに、それをもって国や都に援助を訴えた。この文書でとくに強調されているのは、第一に行政区域統一問題に「東京都が積極的に取り組み、適切なる行政指導を」行うこと、第二に地元自治体の「財政を圧迫しないよう特別の助成方策を」講じること、第三に「職住近接都市」の実現にむけて東京都が強力な指導を行うこと、第四に多摩ニュータウン区域と周辺地域との格差を是正するための公共事業に国と都が特別援助を行うことの四点であった。このような状況のもとで、多摩市は、昭和四十六年四月に一七住区の住宅建設に合意して以降は、「地元自治体の財政負担、鉄道の早期開通、総合病院の開設、行政区画の変更」の四問題が解決されない限り、住宅建設の協議(二六条協議)にはいっさい応じないという態度をとった(資四―335)。これを受けて、東京都は事業計画を遅らせることにしたため、住宅建設はストップした。
 この間、東京都をはじめとする施行者は四問題の解決に力を注ぎ、昭和四十七年に鉄道工事が着工され、昭和四十八年二月には都と都医師会の間で総合病院設立の合意が成立、五章三節でふれたように行政界の一部変更にも見通しがつき、最後に残るは地元自治体の財政負担の問題だけとなった(『朝日新聞』昭和四十八年五月二日付)。