財政負担問題と建設計画の修正

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多摩市は昭和四十八年度に、この問題の解決に向けて独自の「多摩ニュータウン施設計画書」を作成して対案を用意した。そのおもな内容は、住宅戸数を二〇パーセントダウンさせる、緑地を大幅に増やす、住宅の規模は3DK以上を六〇パーセント、4DK以上を三〇パーセントに増やす、分譲住宅の割合を六〇パーセントに増やす、都営住宅の割合を三〇パーセントから一五パーセントに下げるなどで、収入の高い層の入居を増やして税収をあげていくことをねらったものであった(『朝日新聞』昭和四十九年一月二十四日付)。
 また、多摩市議会は昭和四十八年六月二十一日に「多摩ニュータウン第四住区事業計画変更に関する要望意見書」(資四―318)を議決して、開発の見直しをせまった。これは、多摩ニュータウンが「単なるベッドタウンに終わる」ことなく、また「弱小自治体に財政的破綻を招く」ことのないよう、未造成の第四住区について「無公害の事業所等の誘致地区として計画変更し、職住近接と自治体の財源確保に資し、真に理想的都市を建設し、自治体の健全化と住民福祉に万全を期されたい」と要望したものであった。また、昭和四十八年十二月二十五日には「多摩ニュータウン住宅建設等に関する要望意見書」(多摩市議会蔵)を議決し、関係機関に提出した。そこでは、第一に「職住近接に特別の配慮をし、自治体財政の負担なく新都市の創造が可能となるように」新住法を改正すること、第二に学校用地を「無償を以って多摩市に引き渡すことのできるよう特例措置を講ずること」、第三に「緑の保全と自然環境の維持に最善の配慮を払うこと」が要望された。
 施行者と地元自治体で構成する南多摩開発計画会議でも、昭和四十八年八月に、地元自治体の財政負担問題を検討する財政専門委員会を設置して検討することになったが、委員会はあまり開かれず、「多摩市の計画練り直しによる要求を、事実上待つ形になっていた」といわれる(『朝日新聞』昭和四十九年一月二十四日付)。しかし、多摩市と市議会からの要求がまとまると検討がすすめられ、昭和四十九年七月十一日に答申案がまとめられた。施行者と各市はこの答申案をおおむね了承したので、昭和四十九年十月十四日の南多摩開発計画会議において答申案を骨子とした「多摩ニュータウンにおける住宅の建設と地元市の行財政に関する要綱」(資四―334)が制定され、合意が成立した。
 その内容は、多摩市からの一連の要望や対案をかなり受け入れたものであった。すなわち、開発計画については、計画目標人口四一万人に合わせて、道路、下水道等の都市基盤整備は行うけれども、居住人口は計画目標人口の八〇パーセントに抑え三三万人とする、緑とオープンスペースを住区面積の三〇パーセントまで増やす、賃貸住宅と分譲住宅の割合を四五対五五とし、都営住宅の割合が二〇パーセントを超えないようにする、住宅の規模は3LDKと3DKを主体とするなどの変更がなされた。この変更は、多摩ニュータウンにとっての一大転換点であり、都市としての性格が当初の構想と大きく変わることになった。また、学校用地の無償譲与、校舎等の建設への補助金交付、児童館・公民館などの公益的施設用地の譲渡にあたって基準価格から三〇パーセント減額し、建設は立て替え施行して償還の金利を抑制するなどの財政措置が定められた。
 これによって、約三年間ストップしていた住宅建設はようやく再開された。昭和五十一年(一九七六)三月には、貝取、豊ヶ丘、落合の三団地に新規入居が開始され。一気に三〇〇〇戸以上が転入した(『朝日新聞』昭和五十一年三月十七日付)。このときに募集された4LDKの分譲団地は一〇八平方メートルの広さが話題を呼んだ。分譲価格は一五六三万円で公団住宅としては「史上最高」価格だった(『朝日新聞』昭和五十一年一月二十七日付)。

図2―6―2 第2次入居の団地