住民運動からの開発への批判

891 ~ 895
多摩ニュータウンに新しい住民がいっきょに流入すると、行政への需要も急激に高まった。それまでなんのつながりもなかった人びとが各地から集まってきたわけであるが、不便さを解決したいという要求が推進力となって、団地内には自治会、生協、住民運動などを柱に、早くからコミュニティが形成されてきた。五章三節で紹介した昭和四十七年(一九七二)二月の調査によれば、入居から一年に満たない時点で、都営住宅で九五パーセント、公団賃貸で七三パーセントの世帯が自治会に加入している。そして、新しいコミュニティからは、しだいに陳情や請願の形で、行政に対する要求が噴出し、各種の住民運動や文化運動が展開されていく(資四―398~419)。ここでは、転入してきた住民たちがコミュニティの形成ともからませながら住民運動を展開した例として、昭和四十八年から展開された「尾根幹線」道路建設阻止運動について、おもに「尾根幹線を阻止して多摩の自然と生活を守る会」が所蔵している資料にもとづいてみていくことにする。
 すでに五章一節でみたように、多摩ニュータウン計画では、そもそも周辺の諸都市と連合都市を形成することが目指されており、各都市間を結ぶ高規格道路の建設は全体の都市計画のなかに組み込まれていた。昭和四十一年(一九六六)十二月二十四日、多摩ニュータウン開発事業が都市計画事業決定をしたとき、いっせいにこれらの幹線道路の街路計画も決定されたが、尾根幹線はそのなかの「調布稲城線」(1・3・4)を昭和四十四年(一九六九)五月二十日にあらためたもので、正式名「東京都多摩都市計画街路多摩広路一号」(多・広路・1)、街路名称「南多摩尾根幹線」として都市計画決定された。調布市の多摩川原橋を起点に町田市小山の町田街道との交差点を終点とする幅員四三メートル(最大五八メートル)、延長約一六・六キロの幹線道路計画である。
 昭和四十六年(一九七一)三月、多摩ニュータウン第一次入居により、多摩市には多くの住民が転入してきた。生活の利便さを多少犠牲にしてでも、よりよい住環境や自然環境を求めて移り住んできた人が多かった。日本住宅公団の賃貸住宅である永山四―三街区は、尾根幹線用地に直面した場所に立地している。引っ越ししてきたときには住民たちの多くはそこは工事用道路にすぎないと思っていたが、翌四十七年の夏ごろから、幹線道路建設計画があるらしいという話が伝わり、驚き、不安が広がっていった。その年の秋ごろから諏訪・永山公団自治会の特別委員会が調査を開始し、そのメンバーらから反対運動の呼びかけがはじまった。昭和四十八年八月五日、「道路建設をストップさせなければならないと考えていた」人たちが「ようやく初めて一同に会し」(昭和四十八年九月「守る会」発行ビラ)、九月九日、二五人の住民が集まり、「都道〝尾根幹線道路〟は公害をまき散らし、貴重な緑を破壊するものだ」、また「都道調布―保谷線と直結して〝環状九号線〟を形成する」構想であり、「完成すると一日六万五〇〇〇台の車が走ると予想されている」として、「同道路の建設阻止運動を展開していくことを決めた」(『朝日新聞』昭和四十八年九月十日付)。それと平行して、道路用地を自動車道路ではなくグリーンベルトにして、人間優先の広場を配置する構想を掲げた。十月十四日には第三回の定例会がもたれ、会の名称を「尾根幹線を阻止して多摩の自然と生活を守る会」とした。

図2―6―3 住民が作成した尾根幹線計画図

 入居当時、尾根幹線用地の工事用道路は、「工事用以外の車は通行禁止」となっていたが、徐々に一般車両の抜け道としての通行が増えて環境が悪化してきたため、守る会では東京都と日本住宅公団に適切な措置を要求した。しかし、一般車への通行規制措置が行われないので、守る会は十一月十七日に、工事用道路をバリケード封鎖してその内側を歩行者天国にするという行動に出た。これには約二〇〇人の住民が参加し、新聞にも報道されて社会的アピールに成功した。運動の輪は団地の主婦たちを中心に徐々に広がり、十一月二十五日には、永山四―三街区の各棟から一五人の主婦が集まって、各棟から連絡員を一名選出し、連絡網を作るという恒常的な組織作りの段階に進んだ。十二月一日には四―三街区に暮らす主婦たちは、文集「主婦は立ち上がった」を発行して、二〇人の住民たちの声を集めている。ここに、その一部を紹介しておこう(…は中略)。
○尾根幹線が出来るという。そんなばかな!! やっとの思いで公団に入り、山もあり広々した環境で子供を育てられるのはとても幸せに思った。…それに、子供が気管支ぜんそくで、涙が出るほどに、吐き気が出るほどに苦しまなくてはならない咳が、ここに来て一年あまりで幼稚園に入り、やっと体力も出てきたのか、ぜんそくも軽くなってきた。医療も充分でないまま、陸の孤島と名づけられながらも、自然に恵まれたニュータウンだからこそがまんしてきたのに!! …公害をこれ以上広げないでほしい。青い空、緑の町で自然の中で子供たちがのびのびと育つよう願っています。
○四十六年春、入居当初のあの鴬の声、あのひばりのさえずりは、いったいどこへ行ってしまったのだろうか?いったい何が追いやってしまったのだろうか? 理想都市・ニュータウンを取りまく多摩の自然のこれ以上の環境破壊はゴメンだ。環九の建設は同時に我々の生活の破壊を意味する。理想都市!! ニュータウンであらせるためには、ニュータウン住民の力の結集で断固排除しなければなるまい。
○東京につとめを持つ夫にとって、入居当時の多摩ニュータウンは、気の遠くなる程、不便なところでした。二一回目の申込みで、やっと、永山団地が当り、生まれてくる赤ちゃんの健康のために、遠いのも不便な事も全てがまんした三年間。電車も通るようになって、ほっとしたのもつかの間、今度は窓のすぐ下に環状九号線ができると聞き、私たちは何と不運なんだろうとガックリしました。
 八車線もの高速道路のすぐそばで生きていける自信はありません。だからと言って、これ以上遠くなったら通勤不可能になるので都心からこれ以上離れては住めないし、最近の2DKで四万円もする家賃はとても払っていけない我家の家計です。道路が出来たら、逃げ出そうと思って出来る人は幸せだ。にげだしたくても、それすら出来ない私には〝道路を作らないで下さい!〟とさけぶしかありません。
 …反対運動アレルギーの私が、重い腰をもち上げて、半年前から「尾根幹線を阻止する会」に参加しています。…沿線には一四の学校がはりついて計画されています。国が、都が、多くの子供たちの尊い生命をそんなに軽がるしく扱うのなら、私はその前に、両手をひろげて立ちはだかる決心をしました。

 バリケード封鎖の実力行動のあと、平日は検問所で一般車の通行を規制する措置がとられるようになった。五十年五月からは主婦約五〇〇人が請願署名運動をすすめ、六月十七日に一万二〇八二人の署名をそえて、尾根幹線計画の廃棄等を求める請願を市議会に提出した(資四―402)。また同年十一月には、沿線の団地自治会をふくむ住民団体五団体が連名で「尾根幹線北側側道一般道路化阻止住民宣言」(資四―403)を出してアピールをした。

図2―6―4 主婦らの運動を報じた記事

 結局、請願は翌五十一年三月二十六日の市議会で不採択とされたが、同じ日にこの請願の内容を一部を引き取るかたちで、「尾根幹線の計画の公害問題に対応する処置に関する意見書」(資四―405)が議決された。その内容は、都知事に対して「幹線(中央部分)についての自動車用道路計画の再検討」、「五、六住区(諏訪、永山地区)の北側側線は緊急時(災害、地下埋設物の補修)以外の自動車の通行を禁止し、そのかわり南側に生活道路を早急に実現すること」、「今後建設される住宅や学校は、側道部分から十分離して建設し、緩衝地帯、緑地地帯を設けること」などを強く要望するものであった。これによって五八メートル幅の「環状九号線」を計画どおり多摩ニュータウン開発区域内に建設することは、ほぼ不可能となった。しかしながら、一般供用道路開始に反対する決議の方は翌日採決され、否決された。
 その後、尾根幹線をめぐる運動は、昭和五十四年(一九七九)に南側側道の建設着工をめぐって、住民と公団が衝突し主婦に負傷者がでるという一幕もあった。現在は、住民の不安を除去するような建設の実施をめぐって調整が進められているところである。平成十年(一九九八)六月の多摩市議会第三回定例会は「尾根幹線計画の環境問題に対応する処置に関する意見書」を議決し、都知事に対して、尾根幹線をめぐる「過去の経緯を十分に踏まえた道路構造等の計画作成を図ること」、「沿道住民の環境への対策を十分に講じること」、「住民との話し合いについては、今後とも誠意ある対応と解決に向けての努力を継続すること」を強く要望している。
 永山団地自治会と守る会は、運動の結果遊歩道となった北側側線で、毎年「おねかんコスモスまつり」を開き、おねかんの写真展により対外的にアピールするとともに、住民どうしの交流をはかっている。また、大気汚染の測定など環境の監視活動を続けている。
 ここでは、ひとつの住民運動の事例しか取り上げられなかったが、多摩市では、団地に転入してきた住民のなかにも、以前から多摩に住んでいた住民にも、住民運動や自治活動を通して、まちづくりや文化活動に参加する気風が形成されている。その歩みと息吹は『多摩市関係新聞記事目録』などを手がかりに参照していただきたい。