住宅建設開業予定日を過ぎても開業のメドがつかないので、七・八住区に出店が予定されていた二一人は、住宅公団七・八住区店舗早期出店対策会を決定し、昭和四十八年三月十四日に小泉茂一を会長に選出し、六月九日に多摩市議会に陳情書を提出した。その要旨は、「我々は先祖伝来の土地を国家的事業だからと信じて」協力し、「売り渡した土地代金で今日までなんとか生活を保持して来た」し、「当初の予定を公団より説明され、計画的に生活を維持」してきたのだが、建設が遅れることによって生活設計がくるってきており、「出店時の経費も年月の経過と共に」高騰しているので、団地内商店が「一刻も早く完成することを熱望する」というものであった。また、同じ人びとで七・八住区生活再建者補償同盟を組織し、四月六日に、公団に対して出店の遅延に対する補償要求書を提出している。
公団は、住宅建設ができないのは多摩市が協議に応じないからであって、公団には補償する責任はないと主張し、いっぽう多摩市は、さきにふれたような事情でこのときに住宅建設の再開を認めることはできず、出店待機者たちは両者の板ばさみにあって犠牲となってしまった。しかし、この問題が新聞にも取り上げられて注目を集め、市議会がこの陳情を採択したため、多摩市でも「多摩ニュータウン最大の協力者である生活再建者の出店時期を考慮する必要がある」ことなどから、住宅建設に関する協議を「棚上げにすることが、必ずしも市民のためにならない」と、協議の再開を検討しはじめたのであった(資四―332)。
さきにふれたように、昭和四十九年七月に南多摩開発計画会議の答申が出ると、住宅建設の再開と出店に見通しがたつようになった。だが、このときの開発計画の見直しのなかで建設戸数が大幅に減らされたことは、出店待機者にとって大きな不安材料となった。小泉ら一九人は、九月二十一日に、当初の計画通りの実行を求めてふたたび市議会に陳情し、採択されている。しかしながら、そもそも計画変更は市側が施行者に要求したものであったから、この陳情の趣旨が実現されるはずもなかった。ちなみに、二年後の昭和五十一年十一月現在の調査によると、一〇二人の生活再建による出店希望者のうち、出店できていたのは四一人(うち、多摩市民が三三人)、出店を待機していたのが六一人(うち、多摩市民が四五人)であった(「生活再建の現状」、多摩市行政資料)。
また、昭和五十七年五月現在の「多摩市域出店者名簿」をみると、この時点でじっさいに出店できていた人は四四人であった。小泉雄三・アサ夫妻は昭和五十三年に「いずみ屋酒店」を落合団地に開業し、平成九年(一九九七)まで営業した。また、同じ日付の「出店待機者名簿」には四九人が名を連ねているが、一九人の名前は昭和五十六年や五十七年の日付と「辞退」の文字とともに横線で抹消されている。第一次講習から十二、三年ものあいだ待機させられては、辞退して別の人生設計に切り替える人が出てくるのも無理のないことであった。
農家から個人商店に転業した人々の苦労は、たしかに、日本中で中小零細商工業者がきびしい状況にあることの反映でもあろう。しかし、多摩ニュータウン開発のなかで、農業を続けたいという人々の職業選択の自由に制約をかけてまで商店経営に誘導したにしては、同じ開発施行者が、団地内商店の経営に影響を及ぼす施策を次々ととってきたことに対して、生活再建体験者の思いは複雑だ。
永山団地商店街と同じく昭和四十六年に開業した諏訪五丁目団地商店街は、二六店舗中一七店舗が分譲の住宅つき店舗で、そこは商店経営者の私有財産であることもあって、ほかの団地に比べると閉店している店が少ない。しかし、最盛期に比べて売り上げが低下しており苦悩している。永山駅に大型商業施設「グリナード永山」が開店したのを皮切りに、周辺に大型商業施設がふえるにつれて売り上げが減少していった。地元からの要望で住宅建設戸数が減らされたことや、商店街に隣接した団地予定地に住宅ではなく中諏訪小学校が建てられたことも痛手であった。この団地で書店を経営する加藤治男は「多摩ニュータウンができるときに、住区サービス施設がなければ、住民は入ってこなかったと思うんですよ」と語る。パンフレットに住区サービス施設のことを載せて住民を入居させて、「それが終わったら、はい、もう終わります」、あとは住民の要望で、電車も引く、スーパーもデパートも、でも「住区サービスというものは、いつまでも三十年前に置いていかれたという現状ですね」と。
図2―6―7 諏訪五丁目団地商店街の開業時の店舗配置図
近い将来、多摩ニュータウンの各団地では、急速に高齢化が進むことが予想されている。「この先団地のなかで年寄りだけの団地になったら、その時に近くに買い物に行きましょうとなったときに、住区サービス施設がもう完全に機能をなしえていませんという状態になる可能性は大なんですよ」と加藤は訴える(諏訪商店街座談会)。永井照章は生活再建対策で諏訪商店街に和菓子屋を開店した父親の跡を継ぐ二代目社長であるが、当時を振り返って「外からは、不便さを代弁するかのように〝陸の孤島〟といわれましたが、それとは裏腹に新しいまちは活気に満ち、子供たちの元気の良い姿や、若い世代のエネルギーがうずまいていました」と話している。いま「本当の〝陸の孤島〟にならないように、店主たちは集まり、知恵を絞り、アイディアをぶつけ合い考えて」いるところだという(『月刊多摩テレビ』平成九年三月一日付)。今後、駅前拠点の商業振興とともに、高齢者が歩行圏内で日常生活を充足していけるよう、ニュータウン開発が始まった当初のコンセプトに立ち返って、住区サービス施設を活性化させていくことは重要な課題である。多摩ニュータウン諏訪商店会ではいま、住宅都市整備公団に、家賃の値下げと商店街活性化のための協議会の設置をもとめて要望を行っている(「多摩ニュータウン住区商店街の存続と活性化に関する要望」)。