乳幼児保育への市民の要望

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昭和四十年代半ば以降、多摩ニュータウンへの入居が始まるなど、多摩市の人口は急増していった。そのため、ニュータウンへの入居者を中心に、乳幼児保育に対する様々な要望が相次ぐようになる。昭和四十三年(一九六八)五月、町立多摩保育園が百草地区に開設された。ところが、入所希望が定員を大きく上回り、入所待ちをしなければならない場合や、地理的に家庭から離れているため、また、保護者の勤務先の都合上、町立保育所に乳幼児を預けられない例が当初から多くみられた。そのため、交通の便利な聖蹟桜ヶ丘駅付近への町立保育所設置が住民から強く要望されていた(資四―367)。
 昭和四十六年(一九七一)三月、多摩ニュータウン諏訪、永山地区へ初入居が始められ、私立保育所が入居に合わせて二か所開設された。多摩町は、経費抑制のため公立保育所を増設しないかわりに、保育所の設置・運営は専ら民間に任せる方針で、昭和四十六年度から私立保育所への補助を制度化していた。公立保育所では、昭和五十五年四月に貝取保育園が開設されている。市の乳幼児保育を担っているのは、公立二園以外の私立保育所であるといっても過言ではなかったが、年間給与などで私立と公立とでは格差があった。そうした不満から、ニュータウン初入居の頃より、私立保育所の保母などは格差是正を市に度々要望している(多摩市議会蔵)。
 多摩ニュータウンでは、乳幼児を抱えた共働き家庭の占める割合が多かったため、保護者側から、保育所増設を要求する声が強かった。また、三歳未満の乳児保育の定員は非常に少なく、産休明けからの乳児を預かる保育所は皆無であった。そのため、乳児を保育所へ預けられない場合、はとぽっぽ共同保育室のようないわゆる「無認可保育所」で、必要に迫られた保護者による乳児の共同保育などが行われていた(『朝日新聞』昭和五十七年十月二十四日付)。しかしながら、保護者側の負担は大きく、産休明けからの乳児保育の実現や無認可保育所への助成が要望されるようになった(資四―371)。
 乳児保育実施の要望に対し、市では昭和四十九年度から生後二か月以上、二歳未満の乳児を対象に「家庭福祉員制度(保育ママ制度)」を、また、生後四十五日からの産休明け保育のため「保育室制度」をそれぞれ実施し、乳児保育需要の緩和につとめている(『たま広報』一一八号、一二三号 昭和四十九年四月二十日、七月五日付)。産休明けからのゼロ歳児共同保育を行っているはとぽっぽ共同保育室も、昭和五十一年九月から保育室制度の対象となり、市より助成を受けられるようになった。
 多摩ニュータウン入居にともなう乳幼児人口の増加とともに、市の乳幼児保育にかかる経費も増加していった。そうした事情から、昭和五十三年十一月、多摩市使用料等審議会より保育所などの保育料改定が答申され、市は昭和五十四年度から平均五八パーセント値上げの実施を決定した(『朝日新聞』昭和五十三年十一月三十日付)。保育料は、毎年、国により徴収基準額(本来の保護者負担額)が定められているが、実際、各自治体ではそれより低い額を設定している。各自治体は、保護者からその設定額を保育料として徴収するが、国基準額との差額は各自治体が肩代わり負担をしている。国基準額は毎年引き上げられるのに対し、多摩市の保育料は、昭和五十一年度の改定以降据え置かれていた(『たま広報』二四三号 昭和五十四年三月二十日付)。
 こうした保育料の改定に対し、その都度反対請願が提出されたが、市の財政事情全般から昭和五十五年度、五十九年度、平成五年度に改定が実施されている。その一方、保育内容の充実、私立保育所への財政的援助や、低所得者層、乳幼児を二人以上預けている家庭などへの配慮もなされている。
 保育所へ子どもを預ける共働きの家庭が増加していくとともに、保育時間の延長を要望する声も高まりをみせた。保育所の「通常保育」は、午前八時半から午後五時まである。しかしながら、保護者側の勤務時間の都合や、都心方面まで通勤する場合、通勤時間が長くかかることから、通常保育より開始・終了時間をそれぞれ前後一時間ずつ延長する「特例保育」の実施が求められた。保護者側の実情に合わせて、昭和四十六年七月以降、市内の各保育所で特例保育が順次実施されるようになるが、保護者側は、さらなる保育時間の延長を要望するようになった。そのため、平成四年度から、特例保育よりさらに開始時間が三〇分早く、終了時間が一時間遅い「延長保育」制度が一部の保育所で実施され始めた。現在では、市内一四か所すべての保育所で特例・延長保育を実施している。
 昭和四十年代より保護者側などからの乳幼児保育への要望は、社会情勢の変化、核家族化や共働き家庭の増加などが原因で、さらに高まっていった。ところが昭和五十年代になると、多摩市の人口が、多摩ニュータウンへの入居の進展とともに急激な伸びをみせるのとは逆に、市内の乳幼児人口は、昭和五十二年(一九七七)を頂点に次第に減少していく。全国的な少子化傾向のためではあるが、新聞の特集記事では、ニュータウンの分譲価格や家賃が高額になったため、「幼児をかかえる若夫婦は入居しにくいニュータウン」になったことや、昭和四十六年の初入居した頃と比較して、全体的に世帯の年齢層が高くなり、子どもは小・中学生世代が中心になったことなどが原因であると分析している。また、分譲住宅が増加したニュータウンで定住化傾向が高まったことも原因のひとつに加えている。さらに、今後の予測として、小学校の「過疎」が起きるとも分析している(『朝日新聞』昭和五十六年十二月八日付・『毎日新聞』昭和五十七年九月二十六日付)。

図2―6―8 市内の乳幼児人口比率と総人口の推移

『統計たま』より作成。
注)1 乳幼児人口は0歳~5歳未満。
  2 総人口は各年10月1日現在。乳幼児人口は各年1月1日現在。