昭和四十六年(一九七一)三月、多摩ニュータウン諏訪、永山地区へ初めての入居が始まり、それに合わせて、同年四月、永山地区に南永山小学校と永山中学校が開校している(市内公立小・中学校の開校については、巻末の一覧を参照)。開校当初、南永山小学校の体育館、プールなどの施設は未整備で、永山中学校は、建設工事の遅れから一時多摩中学校に間借りをしていた。また、給食センターも未整備のため、給食は実施されなかった(資四―368・『毎日新聞』昭和四十六年四月九日、八月十一日付)。ニュータウンの小・中学校で給食が開始されたのは、永山給食センター(現在の永山第一給食センター)が完成し、調理を開始した昭和四十八年六月のことである。
昭和四十七年(一九七二)三月には、東京都が開発担当した愛宕、和田、東寺方地区への入居も開始されるなど、とくに多摩ニュータウンの小・中学校の児童・生徒数が急激な伸びをみせていった。そのため、多摩市は小・中学校校舎およびその付属施設の建設に追われ、その建設費は非常に重い財政的負担となった。昭和四十九年十月、「多摩ニュータウンにおける住宅の建設と地元市の行財政に関する要綱」が制定された。一住区一中学校、二小学校の原則が再確認され、学校建設については、「住宅建設計画は、学校計画と整合させるもの」とされ、また、学校建設費に対し、特別な財政措置がとられることになった(資四―334)。そして、昭和五十一年三月、貝取、豊ヶ丘、落合三・四丁目地区へ入居が行われるとともに、同年四月、多摩ニュータウンに小学校が四校、中学校が一校開校した。
図2―6―9 市内の公立小・中学校児童・生徒数および学級数の推移
『統計たま』より作成。
注)各年5月1日現在。
昭和四十年代後半より、多摩市内の小・中学生児童・生徒数が増加するにつれて、また、多摩ニュータウン入居などにともなう学校新設のため、各小・中学校の規模を適正に配分することを目的に、ニュータウンに限らず通学区域(学区)が度々変更された。学区変更により転校を何度も繰り返したり、学校が目の前にありながら通学できないなどの不満から、保護者による請願・陳情活動が行われた(資四―375・376)。なかには、変更見直しを求め、市教育委員会と徹底的に争う姿勢をみせた地域も存在した(『朝日新聞』昭和五十九年九月十八日、十一月十五日、十一月二十日、十二月二十一日付)。そのため、新年度に最高学年を迎える小・中学校児童・生徒は、その時点で通学している学校に在学できるようにするなどの経過措置がとりはかられた。また、昭和六十三年三月、聖ヶ丘地区の都営住宅入居に際し、周辺の諏訪、永山、聖ヶ丘地区の小・中学校児童・生徒の保護者側から、受け入れ反対の陳情活動が行われたこともあった(『読売新聞』平成四年五月十八日付)。
昭和五十七年(一九八二)三月、多摩ニュータウン、落合一・二・五・六丁目、鶴牧地区へ、昭和五十九年三月、聖ヶ丘地区へ、平成三年三月、唐木田地区へと続々入居が開始されたが、小学校児童数は、昭和五十九年を頂点に、中学校生徒数は、昭和六十二年を頂点にそれぞれ減少の一途をたどる。減少のおもな原因は、昭和五十一年三月の入居以降、多摩ニュータウン住宅の性質が大きく様変わりしたことにある。都営住宅の割合は抑えられ、分譲住宅の占める割合が増加した。また、住居規模を拡大する方針がとられ、戸建住宅建設も可能となった(資四―334)。こうして建設される住宅の分譲価格と家賃が高額化した結果、新たに入居する家庭の年齢層が全体的に高くなり、乳幼児を抱えた家庭の割合が減少したことで小・中学生は減少した。そのため、将来的に小・中学校児童・生徒数が増加する見込みは少ないと新聞報道では分析している(『東京新聞』昭和五十八年十二月十九日付)。また、少子化傾向の進行やニュータウンでの定住化傾向の強まりが、小・中学生の減少傾向にさらに拍車をかけていた(『読売新聞』平成四年五月十七日付)。