学区見直しと学校統合

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小学校児童数は昭和五十年代後半に、中学校生徒数は昭和六十年代前半にそれぞれ最高潮に達し、それ以降急激に児童・生徒数は減少していった。最高潮を迎えてから約十年後、小・中学校は学校統合の道をたどることになる。小・中学校児童・生徒数が減少した結果、市内の小・中学校間に規模のばらつきが出始め、「空き教室」が目立つなど「学校過疎化」が問題となっていった。多摩ニュータウン初期入居に対応して、昭和四十七年(一九七二)四月に開校した南諏訪小学校は、学校過疎化の典型的な例といえる。ニュータウン初期入居地区では比較的若い世代の入居が多かったため、昭和四十年代後半から五十年代後半にかけて、一気に小学校児童数は上昇し、学校建設ラッシュが続いた。南諏訪小学校の児童数が急増し、飽和状態になったため、昭和五十二年四月、諏訪中学校をはさんだ北側に、住宅用地を急遽変更して中諏訪小学校が開校し、児童数の適正化がはかられた。
 しかしながら、昭和五十年代半ばを過ぎると、全国的な少子化傾向や多摩ニュータウンへの定住化傾向の高まりにより、比較的若い年齢層の入居が減った。その影響で、小学校児童の年齢層が少なくなり、南諏訪小学校の児童数は急激に減少していき、平成三年度には二一二人、各学年一学級となった。児童数、学級数の減少とともに空き教室は増加し、平成三年度には市内の小学校全体で一四四室、「学校五校分の教室が余っている計算」であった(『毎日新聞』平成三年六月二十五日付)。一方、北諏訪小学校では対照的に、児童数、学級数が増加する現象が起こっていた。区画整理事業区域でのマンション建設が増えたことによるもので、平成四年度には二学級分の児童数が増加する見込みであった(『毎日新聞』平成三年六月二十五日付)。

図2―6―10 南諏訪小の学級数および児童数の推移
『市政概要』などより作成。
注)各年5月1日現在。

 こうした過疎校と過密校の児童数の格差を是正し、児童数の適正に配分するため、平成三年(一九九一)三月、多摩市学区調査研究協議会は、「多摩市立小・中学校における適正な通学区域について」の答申を市教育委員会へ提出した。これは、平成二年二月、「適正規模や適正配置、通学区域のあり方などを長期的な展望に立って全市的に調査・研究する必要性」から提出された、市教育委員会からの諮問に基づく答申である。これは全国的にも例をみない全市域の学区見直しで、「小・中学校が地域のコミュニテイの核としての担い手であることを踏まえ」、時間をかけて「市民の理解と協力を得られるよう配慮しながら結論を得る」ようにする。大体三つの中学校区を一区域として、市内を四区域に分割し、「同一地域内で過大校、過少校が生じている地域」から優先的に見直し作業を進めるなどの内容が答申されていた(多摩市教育委員会蔵)。
 この答申をもとに、平成三年(一九九一)四月にA地区の、同七年七月にB・C地区のそれぞれ適正な通学区域設定について、市教育委員会から学区調査研究協議会に対し諮問された。その結果、数回にわたり協議会から市教育委員会に対しそれぞれ答申され(資四―441)、学校統合を含む学区見直しが決定されていった。まず、平成六年度に南諏訪・中諏訪小学校が統合され、諏訪小学校が開校した。平成八年度には永山地区の四小学校が二小学校へ、九年度には同地区の二中学校が一中学校へそれぞれ統合され、新たな小・中学校が開校するなど、学区見直し作業は着々と進められている(市内公立小・中学校の統合については、巻末の一覧を参照)。平成十一年度には南落合・北落合小学校が、十二年度には東落合・西落合中学校がそれぞれ統合される予定になっている。

図2―6―11 市内公立小・中学校の通学区域見直しのための区分図

 学区変更や学校統合などの全市域の学区見直しについて、過疎化が進行していた学校の保護者の意見では、クラス替えができない、クラブ活動が制限されるなどの弊害から、統合を支持する意見が概ねを占めていた(『朝日新聞』平成五年九月五日付)。しかしながら、学区見直しは、「コミュニティーを崩しかねない微妙な問題」であるため(『東京新聞』平成四年八月二十七日付)、学区調査研究協議会は市民に公開された。しかし、一部地域の保護者から、校名に対する不満の声や学校の存続を訴える陳情活動が起こるなど、完全に住民の理解を得るのは非常に困難である。