多摩市の公共下水道

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多摩市の既存地区に公共下水道が整備され、一般家庭で下水道が使用できるようになったのは、昭和五十九年(一九八四)十一月のことである。昭和三十五年に開発に着手された桜ヶ丘団地や昭和四十五年に入居が始まった百草団地などでは、当初からそれぞれ独自の下水処理施設を完備していた。
 下水道整備の立ち遅れは、長らく東京都全体の問題となっていた。昭和四十年代、都内の下水道未整備の地域では、工場の排水や家庭の生活排水がそのまま河川に垂れ流され、水質汚濁、悪臭発生などの公害問題にまで発展していった。また、降雨時に中小河川、排水路や道路側溝が氾濫することによって起きる浸水被害は、住民生活に大きな影響をおよぼしていた。二三区に比べ著しく下水道整備が立ち遅れている三多摩地域では、昭和三十年代後半より急速に市街化が進み、下水道整備の要望が高まりをみせた。
表2―6―3 三多摩地域の下水道普及率
(単位:%)
S40年度 S45年度 S50年度 S55年度 S60年度 H2年度 H7年度
八王子市 4.9 9.5 16.7 22.0 32.5 41.4 55.6
立川市 34.8 52.6 56.6 72.1 79.4 76.9 100
武蔵野市 16.8 32.3 92.0 100 100 100 100
三鷹市 24.2 84.0 99.6 99.9 99.9 99.8 100
青梅市 18.9 47.9 74.3 82.0 91.3
府中市 3.4 16.0 58.2 76.1 100 100 100
昭島市 10.4 37.2 92.1 93.1 93.6
調布市 5.4 32.0 81.9 98.7 100 100
町田市 6.9 7.0 24.4 49.5 57.3 63.9
小金井市 5.0 45.6 100 100 100 100
小平市 5.0 25.7 43.5 68.5 95.1 100
日野市 24.0 18.7 14.2 11.5 14.4 30.9 60.7
東村山市 0.1 9.0 31.7 64.1 92.0
国分寺市 6.7 22.7 48.7 73.8 97.7
国立市 4.6 35.1 70.0 71.2 78.9 100
田無市 12.5 57.0 89.7 100
保谷市 72 319 61.4 74.7 99.9
福生市 9.3 58.8 99.2 100 100
狛江市 8.4 81.4 99.3 100 100 100
東大和市 0.7 23.1 47.9 73.8 95.1
清瀬市 24.5 49.9 72.1 98.7
東久留米市 4.6 22.9 29.3 32.1 51.1 73.6 98.0
武蔵村山市 1.9 15.9 52.0 98.0 98.6
多摩市 16.3 73.4 78.5 90.6 95.7 98.9
稲城市 8.5 35.5 68.2
秋川市 0.3 *7.7
あきる野市 35.6
羽村市 10.6 40.4 81.3 *94.6 97.7
『多摩の下水道』『東京としとうけい』より作成。
注)1 昭和40~60年度の普及率=整備人口/住民基本台帳人口
    平成2~7年度の普及率=整備人口/行政人口(住民基本台帳人口+外国人登録人口)
  2 平成2年度の秋川市・羽村市の数字は平成元年度データを使用。
  3 秋川市と五日市町は平成7年9月に合併し、あきる野市となった。

 下水道整備などの生活環境整備を目的として、昭和三十八年(一九六三)十月、東京都と三多摩すべての市町村が結集し、「三多摩地区環境対策連絡協議会」を設置する。同協議会で下水道整備計画などが検討され、昭和四十二年に「三多摩地区総合排水計画(第一次)」が決定した。その計画では下水道整備について、都は広域にわたる幹線の排水路を整備し、市町村の行う下水道整備事業に対し財政的援助を行うこととする。一方、市町村は、各々の行政区域内の下水管敷設と下水処理施設整備を担い、都と市町村はそれぞれ役割を分担することなどが決められた。
 しかしながら、下水道整備事業には、巨額の費用が必要なため、市町村にとってそれは大きな負担であり、最大の難問であった。また、各市町村で独自に下水道施設を整備していたのでは、財政的事情から整備の足並みが揃わず、生活環境の改善や河川の水質汚濁に対して、下水道整備の効果が発揮されにくいという問題もあった。昭和三十九年(一九六四)、建設省は、「市街地の健全な発展と公共用水域の水質の保全を図るためにはひとつの市町村の区域をこえた広域的な下水道の整備が急務である」との方針を打ち出し、流域下水道による下水道整備を推進していった(東京都下水道局『下水道東京一〇〇年史』)。
 流域下水道は、「流域内にある複数の市町村の公共下水道からの下水を行政区域をこえて広域的に収集・処理する」下水処理方式である(『下水道東京一〇〇年史』)。流域下水道で整備することの最大の利点は、最終処理場を各市町村で建設する必要がなく、複数の市町村で共有するためそのぶん整備費用(最終処理場の建設費)などを低く抑えることができ、財政的負担が軽減されることにあった。また、広域的に整備されることによって、各市町村内での下水道整備が促進されやすく、そのため、河川の水質浄化が飛躍的に高まる効果もあった。
 多摩市にかかわる下水道整備計画は、昭和四十三年(一九六八)二月、多摩ニュータウン開発の関連公共施設事業として「多摩・八王子・日野・町田都市計画第一号下水道(公共下水道)」が決定した。稲城町の多摩川沿い、多摩町との境界近くに南多摩終末処理場(南多摩処理場)が建設され、そこへ下水を送り込む三系統の幹線が敷設される計画であった。多摩ニュータウン区域内の公共下水道整備は、昭和四十三年度にニュータウン開発施行者側から東京都下水道局へ委託され着工された。深刻化する多摩川の水質汚濁対策を促進するため、昭和四十三年九月、「三多摩地区総合排水計画(第二次)」に流域下水道方式がとりいれられ、東京都が建設・管理を行うことが決定する。昭和四十五年五月、多摩市一帯の公共下水道は多摩川流域下水道事業に南多摩排水区(南多摩処理区)として組み込まれ、一元化されることになった。その計画規模は、多摩・稲城町、八王子・日野・町田市の面積六一八〇ヘクタール、人口五五万人を対象としていた。

図2―6―15 南多摩処理場(昭和46年頃)

 市内の多摩ニュータウン区域について、諏訪、永山地区の第一次入居に合わせて公共下水道整備が進められ、南多摩処理場が昭和四十六年(一九七一)三月に操業を開始した。その一方、同じ多摩市内にもかかわらず、下水道施設がほぼ全域未整備の既存地区と、入居時に使用可能なニュータウン区域とでは、その格差が非常に大きかった。そのため、多摩市は昭和四十七年に「多摩市下水道整備基本計画」を策定し、翌四十八年十二月、ニュータウン区域を除く市内全域(既存地区)約六七四ヘクタールについての下水道整備が都市計画決定された。昭和四十九年(一九七四)十一月、多摩市公共下水道は、第一期事業区域として関戸、一ノ宮、東寺方地区の約一五八ヘクタールが事業認可を受け、整備が始まった。
 多摩川流域下水道(最終処理場や幹線など)の当初の整備計画では、昭和五十五年度末完成を目標にして、昭和六十年度末までに三多摩全域の市街地の下水道普及率を一〇〇パーセントにする予定であった。しかしながら、東京都の財政難などの事情で、多摩市公共下水道と南多摩処理場とを結ぶ流域下水道大栗幹線の工事は大幅に遅れていた。大栗幹線は、川崎街道と野猿街道に沿って埋設されることが計画され、昭和五十三年度から整備が始められた。しかし、実際の整備工事の本格的着工が予定より大幅に遅れたため、既存地区の一部の地域では、既に公共下水道の敷設工事が完了しているにもかかわらず、下水道が使用できないままの状態になっていた。
 昭和五十九年(一九八四)十一月、大栗幹線の一部が完成したことにより、待望の公共下水道の第一期供用が始まった。既存地区の関戸、一ノ宮、連光寺、貝取地区のそれぞれ一部の地域、規模にして約七一ヘクタール、約二〇二〇世帯で下水道が使用可能になった。毎年、既存地区で下水道が使用できる地域は拡大していき、平成十年度末の多摩市の下水道普及率は九九・五パーセントにまで達し、生活環境は格段に向上している。