現代の交通網整備

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昭和三十年代後半から、多摩市は都心のベッドタウンとして宅地化が進み、さらに、昭和四十六年(一九七一)三月に多摩ニュータウンへ入居が開始されるなど、市内の人口は毎年急増していった。人口急増やニュータウン開発の進展にともない、市内の交通量は激増し、とくに関戸橋付近の交通渋滞が激しかった。その最大の原因は、都心方面へ向かう鎌倉街道と川崎街道からの自動車が関戸橋一か所に集中することにあった。関戸橋付近の交通渋滞を解消するためには、多摩川へ新たに橋を架けるなどの抜本的対策が必要であった。
 昭和五十五年(一九八〇)十二月、多摩川を渡る自動車の交通渋滞の悩みを抱える、多摩川中流域八市(立川・府中・調布・日野・国立・狛江・多摩・稲城市)は「多摩川架橋及び関連道路整備促進協議会」を結成した。現在の府中四谷橋ほか三つの橋の新設の早期事業化などを国や東京都に働きかけていく方針であった(資四―435)。府中四谷橋は、昭和四十四年(一九六九)五月に都市計画決定されていたが、都の財政難などの事情で長らく着工されていなかった。しかし、架橋予定地周辺の道路整備や区画整理が進んだため(『東京新聞』昭和六十年八月六日付)、昭和六十年十月、建設について、都の環境影響評価書案(環境アセスメント)がまとめられ、昭和六十二年度着工の運びとなった(『読売新聞』昭和六十年十月十五日付)。そして、府中四谷橋は平成十年(一九九八)十二月に開通し、野猿街道と直接結ばれた。
 関戸橋付近の交通渋滞対策のため、道路整備も進められた。昭和六十年(一九八五)四月、新大栗橋と行幸橋の両交差点の自動車の流れを良くするため、川崎街道のバイパス道路として向ノ岡大橋が開通した(『朝日新聞』昭和六十年四月三日付)。また、同年十一月には、関戸橋の上り車線増設工事が行われている(『朝日新聞』昭和六十年十一月十五日付)。さらに、鎌倉街道の新大栗橋や関戸橋の間などでも、中央分離帯を削る車線増設工事が行われ、平成元年(一九八九)十二月より利用されている(『朝日新聞』平成元年十二月二十一日付)。この他、おもな市内の道路整備として、昭和五十七年四月に通称「尾根幹線」の南側側道が、五十八年二月には、多摩ニュータウン通りが八王子市側までそれぞれ開通している(『朝日新聞』昭和五十七年四月二十九日、五十八年二月十五日付)。野猿街道の拡幅工事は、一ノ宮交差点から宝蔵橋までの間が昭和五十二年度に竣工し、そこから八王子市境までの区間は、昭和五十四年度から工事着手され、昭和六十三年度に竣工している。平成元年(一九八九)六月には、多摩センター駅周辺の駐車場不足による交通渋滞に対応するため、多摩市が中心となり「財団法人多摩都市交通施設公社」が設立され、立体駐車場を建設し、管理運営している(資四―438)。
 市内への多摩ニュータウン入居の進展にともなう人口増加は、交通機関整備を押し進めていった。バス交通網はニュータウン入居地域の拡大とともに、路線新設やバス停の移転・新設などの拡充が図られ、その利便性は非常に高まった。昭和六十一年三月、聖蹟桜ヶ丘駅のショッピングセンターに併設して、発着所を一六か所備えたバスターミナルが新装開設された(『京帝たより』四〇〇号 昭和六十一年三月二十四日付)。
 昭和五十八年(一九八三)三月、八王子市域の多摩ニュータウン南大沢地区で入居が開始される。かつて「陸の孤島」と呼ばれた諏訪、永山地区の二の舞にならないように、入居に合わせて京王相模原線が多摩センター駅から現JR橋本駅まで延伸され、開通するはずであった。しかしながら、様々な事情が重なり、南大沢までの開通は大幅に遅れた。昭和五十八年十一月にようやく延伸工事の起工式が行われ、昭和六十三年五月に南大沢駅まで開通した。さらに橋本駅まで開通するのは、平成二年(一九九〇)三月のことであった。
 京王相模原線の延伸が着工したことと、昭和五十九年(一九八四)から唐木田地区で区画整理事業による造成工事が始まったことで、多摩センター駅から唐木田地区までの鉄道延伸が取り沙汰されるようになった。多摩清掃工場を建設する条件のひとつとして、昭和四十七年に東京都は地元への駅開業を約束していた経緯があったからである(『朝日新聞』昭和六十年一月十五日付)。昭和六十一年八月、小田急電鉄は、運輸省に路線延伸を申請し、翌六十二年十二月、延伸工事に着手した。平成二年(一九九〇)には、唐木田地区の区画整理事業が完了する予定で、住民の大量入居が見込まれていた。また、昭和六十三年には、同地区に女子短大と女子高校が開校する予定で、早急に電車による通学手段の確保も必要であった(『朝日新聞』昭和六十一年八月十五日、六十二年十二月八日付)。平成二年三月、小田急多摩線の唐木田駅は開業した。

図2―6―19 造成工事が進む唐木田駅予定地

 平成九年(一九九七)十一月、通常の三分の二規模の「ミニバス」が多摩市によって導入された。それまで要望が強かったが運行されていなかった、多摩ニュータウンを東西に結ぶ路線と、百草団地から市役所を経由して永山駅までの二路線の運行が開始された(『たま広報』七七四号 平成九年十月二十日付)。
 現在、多摩センターまでの「多摩都市モノレール」開業に向けて、整備が着々と進行している。多摩地域のモノレール構想は、昭和四十六年(一九七一)三月に東京都が示した長期構想「広場と青空の東京構想」に起因している。多摩地域南北間の公共交通機関を整備し、各都市間の連携を図るため、昭和五十七年七月、立川など四市で「多摩地域都市モノレール等建設促進協議会」を発足させた(資四―436)。同年十二月、東京都の昭和五十八年度予算案に、多摩都市モノレールの準備調査費が認められ、事実上、事業化が決定した(『読売新聞』昭和五十七年十二月二十八日付)。昭和六十一年四月、路線上の自治体や民間会社で、運営のための「多摩都市モノレール株式会社」が設立され(『読売新聞』昭和六十一年四月四日付)、多摩都市モノレールの建設工事は、平成二年(一九九〇)十一月に起工式が行われ、着工された。平成十年十一月に東大和市と立川市との間が部分開通し、平成十一年度中に多摩センター駅までの全線開通が予定されている。

図2―6―20 開業をひかえた多摩センターのモノレール
(平成11年3月)