昭和四十一年(一九六六)二月十八日付の『朝日新聞』は、都立多摩丘陵自然公園区域内の雑木林が住宅地に変わってきたことを報じている。「京王線沿線で交通の便がいいため、どんどん宅地が造成されて家が建ち、最近ではもう公園どころではなくなってしまった」のである。開発業者は「丘陵地帯、風光明美、環境良好」と宣伝し、「消えた雑木林跡のハゲ山にへばりつく住宅群」が次々に建てられた。緑地は減少するばかりで、東京都自然公園条例は有名無実と化していた。「自然公園の看板が泣く」状態だった。東京都建設局公園緑地部は昭和四十一年度から規制を実施することにしたが、「多摩丘陵の場合は、もうどうにもならない。公園指定を取消すか、どうかという問題が残るだけで、とりあえず次の危険性のある高尾山から規制にかかりたい」と答えている。「急速に広がっていく宅地化の波を、うまく食止められるだろうか――心配する声が強い」とまとめられた、スプロール(無秩序な都市化・宅地化)を懸念する記事であった。
連光寺の「アパッチ砦」は、まさしく、スプロールがつくりだしたものであった。これは高圧線鉄塔が建つ部分の掘削を後回しにしたためにできたものであり、丘陵地の開発がなされる過程の「代表的な景観」である。頂上に高圧線鉄塔を備えた、西部劇に登場するかのような、地肌を露にした異様な土の塊が眼前にあらわれたのである。急激で無謀な開発の象徴でもあった。現在では、その場所がニュータウン区域内に組み込まれ、また、整地されてしまったため、「アパッチ砦」があったことを感じることは微塵もないのだが、聖ヶ丘一丁目の都立多摩養護学校のあたりに確かに存在していた。以下、昭和四十四年(一九六九)四月十八日の『朝日新聞』記事を引用してみたい。
図2―6―23 「アパッチ砦」
鎌倉のころ、多摩町連光寺の本村から丘三つを越え、馬引沢に抜ける間道があった。土地の人は、中尾根と呼んだ。春先、丘の雑木は、いっぺんに芽を吹いて七色のジュウタンのように美しかった、といわれる。
三十三年夏のある日、丘にダンプがはいのぼった。本村の農民土方武治じいさん(七一)は、さして気にもとめなかった。一台が二台、五台が十台、ダンプは日増しにふえた。砂糖の大山にいどむアリのように。リヤカーがやっとだった農道がいつかダンプ街道に変った。物に驚かない武治じいさんも重い腰を上げた。多摩川原でじゃりとりをした大手不動産業者の、穴を埋める土とりだった。崩される自然、ほこりを舞上げてうなるダンプに、村人はせめてもの抵抗をした。「水をまいて走ってくれ。舗装をしろ」。企業の府中事務所と都庁に日参した。散水車が水をまくあとを、ダンプが走った。
四十年、ダンプは大群に変じた。四台のブルドーザーがかき落す土を、百台ものダンプがピストンで運んだ。運転手は「新しい時代の建設」に、口笛で走った。丘はぶち抜かれ、二年後の四十二年、中尾根の丘はなかった。雑木林から首を出すだけだった高圧線の鉄塔だけが三十メートルのガケ上にとりのこされた。切り立つガケ、むき出しの地ハダ、まい立つけむり――村人はこれを〝アパッチ砦(とりで)〟と呼んだ。
事業主は、一帯に四十万平方メートルを持つ大地主である。すでに二十万平方メートルを崩したという。とった土は百八十万立方メートル。ダンプ四十五万台分に相当する。残された丘のすそでは多摩ニュータウンの建設が始っている。丘になじみ深かった鳥も獣も、いまは、いない。多摩丘陵は、死んだ。街道すじの「鳥獣保護区」の標識が、そらぞらしく、立っている。
三十三年夏のある日、丘にダンプがはいのぼった。本村の農民土方武治じいさん(七一)は、さして気にもとめなかった。一台が二台、五台が十台、ダンプは日増しにふえた。砂糖の大山にいどむアリのように。リヤカーがやっとだった農道がいつかダンプ街道に変った。物に驚かない武治じいさんも重い腰を上げた。多摩川原でじゃりとりをした大手不動産業者の、穴を埋める土とりだった。崩される自然、ほこりを舞上げてうなるダンプに、村人はせめてもの抵抗をした。「水をまいて走ってくれ。舗装をしろ」。企業の府中事務所と都庁に日参した。散水車が水をまくあとを、ダンプが走った。
四十年、ダンプは大群に変じた。四台のブルドーザーがかき落す土を、百台ものダンプがピストンで運んだ。運転手は「新しい時代の建設」に、口笛で走った。丘はぶち抜かれ、二年後の四十二年、中尾根の丘はなかった。雑木林から首を出すだけだった高圧線の鉄塔だけが三十メートルのガケ上にとりのこされた。切り立つガケ、むき出しの地ハダ、まい立つけむり――村人はこれを〝アパッチ砦(とりで)〟と呼んだ。
事業主は、一帯に四十万平方メートルを持つ大地主である。すでに二十万平方メートルを崩したという。とった土は百八十万立方メートル。ダンプ四十五万台分に相当する。残された丘のすそでは多摩ニュータウンの建設が始っている。丘になじみ深かった鳥も獣も、いまは、いない。多摩丘陵は、死んだ。街道すじの「鳥獣保護区」の標識が、そらぞらしく、立っている。
農村の風景は、「アパッチ砦」のような無粋で荒れた姿を途中経過にして、人工的な都市景観に置き換わっていく。緑地は減少の一途をたどった。大規模住宅団地の林立する場所が、かつて、里山であったことを想像するのは実に難しい。
開発される前の多摩丘陵は広大な緑野であった。丘陵地の田畑は傾斜があって機能的ではなかったし、雑木林も高い付加価値を生みだすものではなかった。農業で大金を儲けるのは無理なことであった。しかし、田畑や雑木林は村落の生活を支える基盤であり、村人は土地と密接な関係を持って暮らしていた。「何もなかったところ」に新興の住宅地が造られたわけではない。このことをきちんと確認しておきたい。
図2―6―24 花が咲き緑の豊かな1980年代の唐木田