都市化と営農環境の悪化

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首都東京の膨張が多摩の丘陵地と川沿いの田園を宅地に変えた。ニュータウン建設はその一翼を担ったものであったが、多摩市域の六割の面積を覆うものであったため、多摩市域の農業に決定的な打撃を与えた。ニュータウン計画区域内の農家は営農継続を断念せざるを得なかったからである。農業以外の仕事をしたことのない農民にとっては、これは重苦しい現実であった。「生活再建」という美名を冠してはいたのだが、転業は苦労をともなうものであり、農家は困惑するしかなかった。
 都市化が進むなかで、営農環境は確実に悪化した。ニュータウンの区域内だけでなく、区域外でも農業用水の汚濁などに悩まされていた。表2―6―4の「昭和四十九年二月一日現在の地区別農家数・経営方針別農家数」は、『統計たま’75』所収の「多摩市農業経営状況調査報告」から作成したものである。今後の経営方針をどのようにしていくのか。この設問に対する最多回答は、現状維持であった。総農家数四二七戸のうちの一七三戸がこのように答えた。未定は一三〇で、現状維持に次ぐ回答数である。これらを回答した農家は、今後の方針を決めかねていたのであろう。一方、縮小や離農と答えた農家は合計で一一九戸になるが、そのうちの四九戸が環境の悪化を理由に挙げている。規模拡大と回答したのはわずかに五戸であった。

表2―6―4 昭和49年2月1日現在の地区別農家数・経営方針別農家数

(A)専業兼業別農家数(単位:戸)
関戸 連光寺 貝取 乞田 落合 和田 東寺方 一ノ宮 小野路
専業農家 5 1 1 4 4 6 5 2 2 30
兼業農家(農業が主) 7 7 1 6 5 4 2 4 36
兼業農家(兼業が主) 29 65 23 39 76 47 36 19 27 361
41 73 25 49 85 57 43 25 29 427

(B)経営方針別農家数(単位:戸)
関戸 連光寺 貝取 乞田 落合 和田 東寺方 一ノ宮 小野路
規模拡大 専業農家 1 1 2
兼業農家 農業が主 1 1
兼業が主 1 1 2
小計 2 3 5
現状維持 専業農家 5 1 1 1 5 5 1 1 20
兼業農家 農業が主 7 6 3 3 2 2 4 27
兼業が主 18 42 4 1 3 19 20 16 3 126
小計 30 48 5 5 7 26 27 21 4 173
縮小 専業農家 1 1 1 3
兼業農家 農業が主 1 1 2
兼業が主 9 2 1 17 8 6 3 46
小計 10 2 3 18 8 6 4 51
離農 専業農家 2 1 3
兼業農家 農業が主
兼業が主 2 13 12 28 5 3 2 65
小計 2 13 12 2 29 5 3 2 68
未定 専業農家 1 1 2
兼業農家 農業が主 1 2 2 1 6
兼業が主 9 5 37 28 14 7 22 122
小計 9 6 39 31 15 7 23 130

(C)縮小および離農の理由別農家数(単位:戸)
関戸 連光寺 貝取 乞田 落合 和田 東寺方 一ノ宮 小野路
採算が合わない 5 1 4 2 2 3 17
人手が足りない 10 1 2 13
環境が悪くなった 8 9 3 24 3 1 1 49
あとつぎがいない 1 6 4 3 14
その他 2 3 1 11 4 3 2 26
2 23 14 5 47 13 9 4 2 119

 ニュータウン周辺の谷戸は区画整理事業の対象区域となっていたから、営農を希望する者は、その事業が完了した時点で再び農地を手にすることが可能となっていた。しかし、やはりというべきか、区画整理事業で造られた農地の酷(ひど)さと営農環境の悪化は筆舌に尽くせないものであった。図2―6―25は、昭和五十七年(一九八二)九月十四日付『毎日新聞』記事を縮小したものであり、乞田で農業を営んでいる佐伯信行氏と邦昭氏親子の経験を示すものである。その経験とは、区画整理事業終了時点で渡された畑が「えらいシロモノ」だったということと、営農環境の激変である。それでも、土壌改善に努力し、農業に意欲的に取り組んだ。「十年たったいまになって、やっとまあまあの土壌にできた。大変だったですよ。なにしろ、あんた、たい肥をやろうにも、周囲の山がなくなっているのだから、こやしの作りようがなかったよ」と『毎日新聞』に答えている。「知り合いの農家から分けてもらった牛のふん尿をたい肥代わりにまいたら、さっそく市の環境衛生課員が二人して飛んできた」という。近くの住民から、悪臭だと通報されたからだ。ニュータウンが開発される前と同じように耕作すること、つまり、農業を再開することが既定のことであったとしても、新興住宅が建ちならぶなかでの農業にはさまざまな障害と困難がつきまとったのである。

図2―6―25 佐伯信行家の体験を伝える記事