当初、多摩ニュータウンの誘致を積極的に推進した富沢町長・市長は、ニュータウン建設が本格化してくると、開発が地元市の行財政を破壊しないよう国や都に対して強く抵抗しながら、計画の修正をせまるとともに、「計画区域外を計画的に開発することとし、町全域を格差のない近代的な理想都市とするよう」つとめてきた(『多摩町総合計画基本構想』)。
昭和五十四年に新市長に就任した臼井千秋は全職員を前に「快適な住宅と魅力ある商業都市を目指しながら、心豊かな人間関係を育てることが市長の最大の責務」であるとのべ、職員には「限られた財源の中で、いかに最小の経費で最大の市民サービスをはかるかに英知を傾けて」ほしいと語った(『朝日新聞』昭和五十四年五月二日付)。また、市政の方向づけとしては「ニュータウンと既存地区の格差是正を重点的に進める」ことと、「ニュータウンに業務施設を誘致して職住近接の街づくり」に力を入れる姿勢を明らかにした(『毎日新聞』昭和五十四年四月二十四日付)。
昭和五十六年(一九八一)十二月にまとめられた多摩市総合計画基本構想(第二次)では、将来目標として「『ふるさと』と呼べるまち、健康なまち、市民文化のまち、商業のまちづくり」の四項目を設定した。とくに、商業の振興によって「都市活動の活発化、職住近接の推進、行財政の健全化など」を進めようとはかった。「商業基盤の早期整備、既存商工業の育成、本市の特性を生かした文化・情報などの新しい産業の振興に努め」るとされている。
また、基本計画の推進にあたっては、行財政運営の効率化が強調されている。当時、多摩市にとって重要な課題であった「既存区域とニュータウン区域の均衡のとれた発展」をはかるためには「都市基盤の整備をはじめ、教育施設、福祉施設などの整備に巨額の財源を必要」としていたのだが、多摩市の「財政構造は市税などのいわゆる自主財源が歳入の四〇パーセント程度であり、その多くを国、東京都などの支出金である依存財源で占められている」状況であった。そのため、行財政運営の適正化、税財政制度の改善、自主財源などの確保の三点の必要性が強調された。
図2―6―26 市制施行以後10年間の予算額と市税の推移
多摩では町時代の昭和四十一年(一九六六)に三多摩地域では狛江に次いで二番目にコンピュータが導入され、昭和五十二年度(一九七七)には住民基本台帳の電算化によって情報管理業務のコンピュータ利用に歩を進めたが、その後もコンピュータの高度利用による事務処理の効率化が進められている。それとともに、多摩ニュータウン開発の進展にともなう人口増加のなかで、組織の肥大化を防ぐことに注意が払われ、職員の定数抑制を実現してきた。平成九年四月一日現在の多摩市の職員総数は九七六人であり、これを平成十年一月一日現在の人口で割ってみると、人口一〇〇〇人あたりの職員数は六・八一人で、三多摩の全市町村のなかで、小平市の六・三〇人に次いで、少ない方から二番目となっている。ちなみに、三多摩全体では八・四〇人、東京特別区では一〇・〇〇人である。