多摩市議会では、昭和四十八年十二月に建設大臣と都知事に出した要望意見書で、すでに新住宅市街地開発法(新住法)を改正して、多摩ニュータウンに企業を誘致し職住接近をはかることを要望していたが、昭和六十一年(一九八六)五月十六日にようやく同法は改正施行された。新住法は、その第一条に規定されている通り、「健全な住宅市街地の開発及び住宅に困窮する国民のための居住環境の良好な住宅地の大規模な供給」を目的としており、そのような高い公共性を有する事業を行うがゆえに土地収用権まで付与して、農家の土地所有権を制限して用地買収を進めることができるようになっていた。ところが、すでに用地を確保したあとで、そこに大企業を誘致しようというのであるから、その根拠づけが必要となる。そこで、誘致できる施設「特定業務施設」は、第一に「居住者の雇用機会の増大」をもたらし、第二に「昼間人口の増加による事業地の都市機能の増進に寄与」し、第三に「良好な居住環境と調和する」という三つの効果をもたらす事務所や事業所などの業務施設とされた。この改正によって、企業が多摩ニュータウンに立地することに公共性が認められ、進出が可能となった(第二条)。
この新住法の改正を受けるかたちで、東京都は昭和六十一年十一月の第二次長期計画で、多摩センター地区を「立川・八王子・町田・青梅と並んで多摩地域における『心(しん)』の一つとして位置づけ」た。翌、昭和六十二年一月には、東京都都市計画局は多摩センター駅南側の五ヘクタールを「特定業務施設」が建設できるよう都市計画を変更することにした(資四―426)。また、東京都南多摩新都市開発本部と住宅・都市整備公団南多摩開発局は、多摩ニュータウン開発をとりまく事業環境の変化に対応するための検討に着手し、昭和六十二年三月に「多摩ニュータウンの商業・業務等施設のあり方に関する調査・調査報告書」を発表した(資四―427)。この報告書は『資料編四』に抄録してあるので、詳しくはそちらに譲るとするが、こうして、多摩ニュータウンを「住宅都市」から「複合多機能都市」への転換をはかる道筋が本格的に模索されるようになった。昭和六十二年四月の市長選で三選された臼井千秋市長も当選後に「多摩ニュータウンの企業誘致を進め、産業、文化施設もバランスよく配置された町づくり」に取り組むと抱負をのべた(『朝日新聞』昭和六十二年四月二十九日付)。
昭和六十二年七月、多摩ニュータウンへの企業誘致第一号として朝日生命保険相互会社が決まった。同社の「用地の分譲には、百社もの企業から引き合いがあった」と報じられている。また、多摩市は同社の誘致によって「地元の主婦や高校卒業生などの大幅な雇用拡大」と法人税などの税収増加を期待した(『朝日新聞』昭和六十二年七月二日付)。同社は、新宿副都心にある本社から、コンピュータセンターと事務管理部門を中心とした六部門を移転し、平成三年(一九九一)五月七日に多摩本社として業務を開始した。地上約一〇〇メートルの二〇階建てビルは当時「多摩地区一のノッポビル」で、多摩センターのオフィスビル第一号として目をひいた。また、四階には地域住民が利用できる集会室、展示ホール、喫茶ラウンジが設置されている。これも、新住法の目的にかなう開発として建設がすすめられているからである。また、同社では新宿本社と多摩本社に「光ディスクシステムを導入し、両者間を高速デジタル回線で結ん」で「画像情報を即座に伝送・検索する」ことができる仕組みをとった。このようなテクノロジーの発達によって、多摩市に本社機能の一部を移すことが可能になったのである。
平成六年にはベネッセコーポレーション株式会社が多摩センター南側に地上一一一メートルの二一階建て自社ビルを新築し東京支社を移転させた。多摩市に進出した理由は、第一に「高層化が前提となるため、できるだけ地盤の安定した場所に建設した」かったから、第二に「東京や横浜の中心から約一時間の距離にあるので、氾濫する情報から一歩離れて客観的な見方ができ、必要なときにはいつでも、そこにアクセスできるから」、第三に職住近接をはかって社員の通勤負担を軽減するとともに「自分のための時間をもっとふんだんにもてる住環境を実現」するための三つであったという。また、多摩市の「ライフラインとしての交通や電気、通信などのインフラ」が「よく整備されて」いることも評価された(ベネッセコーポレーション株式会社「会社概要」、同「建築概要」)。
こうして多摩ニュータウンの中核都市としての発展が期待される多摩市は、本社機能の分散をはかるさいの進出先として注目を集めた。住宅都市に特化されてきた多摩市が、良質な労働力の供給源として期待されたこともひとつの要因である。