シニアタウン化の現状

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多摩ニュータウンは、本文でもあきらかなように、多摩市をはじめ稲城、八王子、町田の各市にまたがり総面積約三〇〇〇ヘクタールで日本最大の規模を誇り、事業は、いまもなお進行中である。『日本経済新聞』は、平成八年(一九九六)七月二十三、二十四、二十五、二十七日と「多摩ニュータウン四半世紀を越えて」という記事を載せた。この年は、多摩ニュータウンの基盤整備がスタートを切ってから丁度三十年目、多摩市の諏訪、永山地区に第一次入居が始まってから二十五年目にあたっている。このような因縁があってか、この特集は、短期連載ものであるが、なかなか密度の高いルポ風報道として、生成期と異なる四半世紀後のニュータウンの風景と直面している問題点を鋭く抉りだしている。
 このころ、市域のほぼ三分の二弱を占める多摩ニュータウンを抱えている多摩市は、新住宅市街地開発法一部改正(昭和六十一年)にもとづく「業務複合都市」づくりに苦慮し、さらに、人口の激減と学齢児童・生徒の減少、住民の高齢化にくわえ、諏訪二丁目団地に代表される建物の老朽化と建て替えという住居の再整備の課題に直面するようになった。
 多摩市の人口は平成五年の一四万五六五九人をピークに年々少しずつ減っていて、市企画部企画課の調べによると、平成十年度は一四万三三一四人になっている。こうした人口の動きのなかで、平成六年に六五歳以上の高齢者の割合は、七・八パーセントであったが、平成十一年には九・九パーセントと、高齢化の波は高まり、若年層の流出という「過疎現象」に見舞われていた。
 このため、平成六年に市東部の諏訪地区の中諏訪小学校と南諏訪小学校の二校が統合され諏訪小学校となり、平成八年には、やはり東部の永山地区にある東と北の永山小学校が一緒になって永山小学校となり、西と南の永山小学校が合併して瓜生小学校となった。三小学校の廃校である。そして、今後、五年間で残る市内の一四小学校も半減するとみなされるようになった(『産経新聞』平成八年三月十七日付)。事実、市内の学校統廃合は、平成九年にも永山中学校と西永山中学校が統合され多摩永山中学校となり、その後、多摩市学区調査研究協議会が進めている東落合中学と西落合中学の統合問題をめぐって、さまざまな波紋を呼び起こしていた。
 このようなひときわ目立つ小中学校の統廃合の動きに、とうぜんのことながら賛否両論が投げかけられた。協議会の中学学区見直し案は、東・西二つの落合中学校を統合し、西落合中と鶴牧中に別れて進む南鶴牧小学校の児童を全員鶴牧中に進学させる案をつくり、すでに、この年、南鶴牧小の学区変更を答申していたのである。この「既成事実づくり」で生徒数が減少する西落合中の生徒・保護者が中心になって統合反対の署名を集め、その数は三二〇〇人にのぼった。一方、東落合中学地区の青少年問題協議会落合地区委員会は、生徒数の減少で、配置教員数の減、生徒の部活への影響を憂うる要望書を市に提出していた。こういう事情のため、学区調査委員会は、地域で懇談会を開いたり、二つの中学の保護者が統合まえから相談して地域ぐるみで問題に対処したいという意見書を提出していた。協議会も、こうした意見を踏まえて答申をまとめる意向であると新聞は報じていた(『朝日新聞』平成十年一月十三日付)。
 このところ、東京都の二三区内をはじめ多摩地区の武蔵野市、青梅市とならんで多摩市の小中学校の統合が目立っている。そのなかで、多摩市の場合は、市の統廃合の施策をめぐって、地域から保護者が活発な意見を寄せていること、市が学区調査研究協議会などをつうじて、世論を汲み上げ、適切な調整の道をこうじようとしていることが注目される。そこでは、子どもの数が減少する見通しのなかで「教育環境」をいかに守るかという考え方が基準にすえられているかのような印象を受ける。