環境再形成への試み

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小中学校の統廃合の過程で問題となってきたのは、跡地利用と施設転用にともなう補助金返済と地方債の償還方法についてである。多摩市では、かつて周知のように多摩ニュータウン区域への入居と急激な人口増にともないハイペースで学校建設が進められた。そのさい、多額な国庫補助金と郵政省などから地方債(多摩市義務教育債)をそれぞれ借り入れてきた。その返還問題が持ち上ってきたのは、四つの小中学校が廃校になってからである。その額は、旧南永山小、旧東永山小、旧中諏訪小、旧西永山中の四校を合せて、国庫補助金が一五億四九三八万円、地方債が一一億一一二〇万円となっていた(『東京新聞』平成九年一月二十八日付)。
 このうち、国庫補助金は、当初の学校教育の利用目的が変更した場合、土地購入費については全額返還、建物の建設費用については老人福祉施設など一部の事例を除いて原則として全額を返還しなければならない。また、地方債については二十五年の償還期限を繰り上げて一括して返済することになっていた。市の財政課にとって大きな難題がふりかかったことになる。というのは、用途の変更の如何によっては、市は億単位の額の金を返却しなければならないし、市税収入が三〇〇億円を割り込んでいる財政事情のもとでは、今後、転用計画を進めるとしても、学校の統廃合自体が大きな妨げになる。
 こういう事態のもとで、旧南永山小学校の校舎は、一時、統合により新しく誕生した瓜生小学校の暫定校舎として使われていたが、平成九年四月からは「社会教育施設」に落ち着き、市民の利用に供するという「多機能公民館」となり、旧中諏訪小学校は、市教育研究所や図書館収蔵庫など市教育委員会の施設となって、旧東永山小学校と旧西永山中学校の有効な利用方法も検討の課題にのぼっていた(『読売新聞』平成九年二月十八日付)。
 学校跡地、廃校校舎を再利用するさいに、少子化とともに急速に進む高齢化に対応する構想もあらわれている。多摩市の市廃校施設等活用市民懇談会は、高齢者施設防災避難所や社会教育施設として活用すべきであると、臼井千秋市長のもとに報告書を提出していた。また、高齢化対策として老人ホームにできないかという声もある。あきらかに「学校教育」という利用目的からの変更であり、補助金は、返還しなければならなくなる。当時、多摩市は、教育関係の起債の借金返済が年間一七億円近くにのぼり、借金返済に補助金返済の負担までが加わるという悩みをかかえていた。こうしたなかで、文部省も用途変更の適用範囲を「教育施設から福祉施設」などにも広げ、手続きもなるべく報告だけで済むよう簡素化したと、説明していた(『産経新聞』平成九年八月十八日付)。また、多摩市でも学校跡地を「全市民の財産」として活用するよう「恒久的な利用計画」を立てることにして、その意見を市民から幅広く聞く方法を検討しはじめていた(『読売新聞』平成九年五月十九日付)。
 このころの小中学校の目まぐるしい統廃合は、第一次入居者(団魂の世代)たちのジュニア世代(二世)の卒業、転出により就学児童たちが激減するという過疎現象を物語っている。しかも、この現象は、最初に入居がはじまった市域の東にあたる諏訪・永山から西側に移動すると、市あたりではみていた。
 壮年・若年層世代の都心などへの大量流出は、すでに指摘しかけたように、市域の高齢化の波を一挙に加速するという予測もある。かつて、「若夫婦と赤ちゃんの街」といわれたニュータウンは、「シルバー団地」とささやかれ始めているという。
 街の高齢化は、人間の年齢にとどまらないで建物にまでおよんでいる。まえに名前をあげた諏訪二丁目団地に例をとると、二〇〇〇人強の人が住むこの団地は、コンクリートの壁が落ちたりして老朽化が深刻になり、平成八年五月、団地の総会で建て替えの推進を決議した。これにより、資金の問題などはあるが、平成十三年の着工に向けて住民の合意をとりつけ、事業計画を作成しはじめた。しかし、建て替えは事実上不可能であるという建蔽率一〇パーセント、容積率五〇パーセントのこの地の問題について、七月上旬、東京都は、多摩都市整備本部、都市計画局、住宅局の課長級で連絡調整会を設置し、まずは地元と勉強会を開く構えをみせた(『日本経済新聞』平成八年七月二十三日付)。
 諏訪二丁目団地問題は、その後、NHKテレビの「クローズアップ現代」(平成九年十一月十七日)が取り上げ、住民主導の「等価交換方式」の建て替え運動を紹介していた。この方式は、住民負担を軽減するために建物の半分を分譲用にまわすというものである。テレビは、団地側と市の交渉の模様を伝えていたが、ここの試みは、建築物の老朽化を克服できるかどうかの重要な試金石となっている。
 新しい街づくりへの方向づけを昭和時代の終りから平成年間にかけて、多摩ニュータウンは、「ベッドタウン」から「業務複合都市」へとその性格を変えようとしていた。住宅・都市整備公団は、一三万人の職場づくりを目標に特定業務施設を誘致した。その努力もあって、平成三年五月、京王線・小田急線多摩センター駅南側に朝日生命保険多摩本社が開業したのを始め八施設が誕生し、都心の会社の補完の役割を担ったり、研修の機能を受け持ったかのようであった。多摩センター駅周辺は、「近未来都市」を思わせるベネッセコーポレーション、サンリオピューロランドが出現した。しかし、整備公団の特定業務施設用地は、一区画一ヘクタール前後という広い面積であるので、景気低迷と重なり、平成五年三月以後は計画どおりにいっていない(『日本経済新聞』平成八年七月二十四日付)。
 しかし、多摩市自体は、この巻の「現代」の概説で指摘したように聖蹟桜ヶ丘駅と多摩センター駅という南北二つの玄関口を持ち、「多機能複合都市」としての条件を備え、現代都市の景観を整えてきた。事実、市は、一方で前述してきたような大きな社会問題を抱えながらも、業務・商業施設、大学などの教育・文化の諸機関、医療・福祉の諸設備を整える中で、東京都都市計画局総合計画部多摩開発企画室が強調するように、多摩ニュータウンを「生活文化の中心都市」として育成する条件はできあがっていた。また、関東通商産業局が構想する「アクションプログラム」を実地に移していく可能性も芽生えていた。というのは、多摩地域には電気・電子・情報通信および輸送機械などの先端産業や、これらを支える製品開発型の中堅中小企業、基盤技術型の中小企業が広範囲に存在し、やはり多摩に移転してきたり、新しくつくられた理工系学部をもつ二十余の大学や公的研究機関があるからである。
 たしかに、地域経済の振興が多摩ニュータウンの活性化をうながしていく鍵になってくる。しかし、業務都市づくりの経済基盤は安定性を欠き、ここに住む人たちの不安感もあいかわらず根強い。たとえば、多摩市と周辺都市を結ぶ広域幹線道路は、川崎街道、野猿街道、多摩ニュータウン通りなどの五路線であり、開発関係者も認めるように、ニュータウンから他の都市へのアクセスは不十分である。しかも、東西方向とくらべて南北の交通は不便で、多摩センター駅と中央線立川駅を結ぶ多摩都市モノレールは、多摩ニュータウンの「南北問題」の解決に道を開くのではないかと期待をかけられてきた(『読売新聞』平成七年九月八日付)。多摩都市モノレールが開通すれば、立川方面との連携も強まり営業範囲もひろがり、業務施設の誘致にもプラスになるという見方もできるが、その反面、立川市周辺との競合が加熱し、地域間競争を激化させる恐れもとうぜん生じる。
 経済活動の不安定度は、地域間にもしのび寄り、従前に増してその度合いを強めている。多摩ニュータウンの場合にも、多摩センター地区やニュータウン通りに大型店が進出し、そのために、永山名店街や諏訪名店街が圧迫を受け、廃業を余儀なくされているケースも目だつようになった。地域内の商業施設の競合の中で、劣勢に立たざるをえない商店街は、イベントの相互協力で経済の相乗効果を狙う策をあみだしている例もある(『読売新聞』平成九年一月七日付)。
 経済の面からみるかぎり、「業務複合都市」としての多摩市の地域活性化の求心力を強めることは、容易ではない。したがって、職住接近型の都市の模様替えも、そう簡単に実現することはないであろう。そこで、これからの新しい街づくりには、高齢化への対応を基軸とする発想がまずなによりも大事になってこよう。高齢化を争点にすることは、経済と福祉の座標の中で、新しい街づくりの方向を模索する手がかりをうることができるからである。