このような、現に伝承されている営為であり、また、今は行われていなくても多くの人々に共通の記憶として残されてもいる民俗は、実に厖大(ぼうだい)な量にのぼるが、あまりにも当たり前なことと思われているがゆえに、従来、記録される機会が少なかった。記録にとどめられることがなければ、伝承している当事者以外にはその内容を知ることがかなわず、研究上の資料として第三者が利用することは不可能である。
とはいえ、民俗は全く記録にとどめられなかったわけではない。古代の『風土記』をはじめ『古事記』や『万葉集』からは当時の民俗の一端をうかがうことができるし、各時代の貴族の日記類からも彼らの伝承生活や彼らの目に触れた当時の他の階層の人々の民俗を知ることができる。著作の目的が別のところにあり、しかも内容のほとんどすべてが、日本全体からみれば文字を駆使することのできる一部の階層や地域の人々のものであったとしても、これら著作類がある種の民俗を知りうる有力な資料であることは間違いない。江戸時代の随筆や紀行文、名主・庄屋などの日記になれば、もう少し対象の範囲が広まり内容の詳細なものが多くなってくる。近世の地方文書の中にも、当時の民俗を知る手がかりはいくらでも得られる。
しかし、日本文化における民俗の意味を理解し、それを全国にわたって組織的かつ積極的に調査し記録にとどめようとの機運が生じたのは明治時代の中・後期であり、軌道に乗るようになったのは昭和も十年代になってからである。これらの調査は、当時の日本の大部分を占めていた農・山・漁村部において、そこの人々の民俗を聞取ったり観察して記録することから始められ、次第に農民漁民以外の職人や商人へも範囲を広げ、近年では都市生活者の民俗にも関心が及んでいる。これらは、活字で記録されている点では先の日記や紀行文、地方文書等と変わるわけではないが、日記等のがどちらかというと偶然に見聞した民俗が断片的に記されているのに対して、民俗の有機的連関を念頭に置いて聞取りをし記録しようとした点に相違がある。したがって、聞取りの記録のみを民俗資料とする考えもあるが、これは民俗資料をあまりにも狭く解しすぎている。ここでは、日記等のを文献資料、聞取りの記録を聞書き資料として、ともに民俗資料の一部としておきたい。
民俗資料としては、石仏・石碑・墓石や、まれには梵鐘に記されたものもある。特に石仏・石碑には好資料が多く、庚申塔や馬頭観音、道標や用水記念碑等々からかつての信仰の実態や人々の組織、生活をうかがうことは十分にできる。このほか、各種民具も有力な資料であるし、絵画や、近代以降では写真もビデオ等も民俗資料として利用可能である。さらには、地名や土地の景観、屋敷どりも民俗資料の一つに含めてよい。
本書では可能なかぎりの資料を用いて多摩市域の民俗を記すことになる。しかし、残されている文献資料の内容には興味深いものもあるが断片的であるために、どうしても本市史編集委員会発足以来収集してきた聞書き資料を主にせざるをえない。それらに加えて、石仏・石碑や民具、写真等を補助資料として用いることになろう。