2 「民俗編」の意義と構成

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 『多摩市史』は通史編二巻、資料編四巻、それに民俗編一巻の計七巻からなっている。民俗は広義の歴史研究資料の一種であるにもかかわらず、民俗が通史編にも所をえず、資料編ともならずに、「民俗編」の形で別の巻として纏(まと)められることになったのには、理由がないわけではない。
 通史編は、地質・植物・動物など自然にかかわる内容を除けば、当然のことながら実年代を示しつつ記述が進められるはずである。資料編に収載される各史料が実年代の明らかな事実であることはいうまでもない。一般に歴史記述は出来ごとの生起した年月日に厳密であろうとするが、民俗はそれのできないものが多い。民俗でも、例えば代参講の帳面などが残されていれば、嘉永何年に何々村に御嶽講があって代参者三名が御嶽神社に参って神札を受けてきたとか、また、屋根普請関係の資料が保存されていれば、明治二十年に何々家が茅屋根の葺替えをした際には、村内のどの範囲の人々がどのような協力をしたなどと、年代を示しつつ説明はできる。しかし、御嶽神社への代参や茅屋根の葺替えが、昭和三十年代にも嘉永年間や明治二十年とほとんど同じように行われていたとすれば、代参講や屋根葺替えという民俗にとって、嘉永年間や明治二十年という実年代の持つ意味は、絶対的なものとはいえない。まして、田植えや炭焼きや川漁のやり方とか、「烏鳴きが悪いと人が死ぬ」などという俗信の説明にとって、明確な年代の提示が不可欠だとは思われない。すなわち、持続性を有する民間伝承を資料として記述を行う「民俗編」は、実年代を明らかにしえない、あるいは明らかにすることを絶対とはしない事実をもって構成されるのである。このため、市史としては、実年代を重視する通史編でも資料編でもなく、民俗編という別の巻として位置づけられるのである。
 実年代に拘泥しないとはいえ、民俗も歴史の流れの中の人々の営為であることに間違いはない。まして、先に述べたとおり、本「民俗編」に用いる主たる資料が現存する古老からの聞書き資料であってみれば、当然それらは、古老の生きた時代の民俗ということになり、明治時代末期から現代の事実である。古老の語ることに一、二代前の人々から聞き及んだ体験が含まれているとしても、明治初期をいくらも遡らないであろう。したがって、本「民俗編」の内容は、近世の地方文書や石碑等の金石文を用いて明らかになしえたものを除けば、だいたい近代の多摩市域の民俗を記したものということができる。その際、近代において生起したさまざまな変化についても可能なかぎり明らかにしようとした。
 なお、いちいち実証はできないながら、近代の民俗とはいっても、その中に多くの実に古い伝承が含まれているであろうことは、もちろんである。多摩以外のことであるが一例を挙げておくと、井戸の遺跡を発掘すると、しばしば井戸底から古銭・古瓦・土器・土製模造品が発見されるというが、これについてある高名な考古学者は次のような体験をされたという。すなわち、奈良の橿原遺跡の第三号井筒を発掘した際、掘り進んでいって、曲げた薄板で外部を取巻いた円形木製の桶が発見されると、見物人の一人が、まなこ(眼)が出たからもうここが井戸の底だろうと言った。そこでその見物人に尋ねると、伊勢の人で、伊勢地方では、現在でも井戸の底にまなこといって桶や壷、竹で編んだ笊(ざる)状のものなどを入れるのだという。旱魃(かんばつ)になればそれに従って井戸を掘り下げるためにまなこを納めるのだともいうが、不用になった井戸を埋める時に必ずこのまなこを取上げなければ、埋めた上に家を建てたり道路を作ったりした人に必ず祟りがあるのだと言われている(山本博『井戸の研究』九〇ページ)。これは、井戸底にまなこを入れるという現代の民俗によって、古代の井戸底の物品の意味や井戸に対する古代人の意識が解明された例であると同時に、現代の民俗が実に古い伝承を宿していることを明らかにした例かと思われる。古代の多摩の井戸についてはどうか知らないが、近代において盛んに掘られた多摩市域の井戸には、このまなこ状のものは入れられていたようである。
 右の井戸のことはほんの一例にすぎないが、近代の竈(かまど)などをめぐる火の信仰や先祖供養のしかた、村落運営の方法、昔話や仕事歌など多くの民俗に、いつの頃からのものとは断言できないながらも、近代以前の伝承が多く含まれているであろうことは念頭に置くべきであろう。民俗とはそういうものである。
 多摩市の歴史を記述する通史編は、考古学の発掘品や中世以降の金石文、それに絵画なども資料として一部活用されるであろうが、何といっても文書類を主資料としてなされるであろう。その文書類に記されている内容は、当時人々の耳目をそばだてた一回起的な大小の事件や公的な記録であることが多い。有識者の深い思索や彼らの主張、個性的文芸作品であることもある。そのため通史編は、どうしても事件史や制度史、有識者の業績紹介的色彩を帯びやすい。それらが立派な歴史であることは言をまたないが、しかし、多摩市域の歴史にはまた、あまりにも当たり前のことであるがゆえに文書に記されることは少なかったが、その時代時代の多くの人々によって支持されてきたさまざまな民間伝承のあったことも忘れてはならない。このような民間伝承は、事件や公的制度の背後にあって、しばしば事件をひきおこしたり制度を定めた人々の行動や価値判断の潜在的基準とされてきたはずである。大事件や有識者の非凡な思想や大発明に比べて、創造的性格や世の中を改変したりリードする爆発的エネルギーには欠けているが、それぞれの時代や地域社会を維持安定させる役割を担っていたり、時には国家権力の統制に無言の抵抗を示す力を秘めている。民間伝承は、積極的に文字に記されてきた事実を支える基層文化として存在しつづけてきたのであり、現代でもそのことに変わりはない。多摩市の本当の歴史を明らかにするには、民間伝承の解明を同時に行うことが必要である。ここに、「民俗編」編集の意義がある。