近世

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江戸時代になると、残存している地方史料や石碑・石仏も多くなり、市域の様子がいくらかは明らかになる。
 現在の多摩市は、江戸時代の関戸・連光寺・貝取・乞田・落合・和田・寺方・一ノ宮の八か村を母胎にし、それに百草(もぐさ)・落川(おちかわ)両村(現日野市)の飛び地や小野路村・小山田村(現・町田市)の一部も入っているが、この八か村は江戸時代初期にはすでに成立していた。すべて幕府領で、代官支配と旗本知行地とに分かれていた。八か村の江戸時代初期の家数は明らかでないので、『風土記稿』によって江戸時代後期の民家数を示すと、表1-3のとおりである。不明な一ノ宮村を除いて三九五戸、一ノ宮村を加えると恐らく四三〇戸前後あったかと思われる。
表1-3『新編武蔵風土記稿』による民家数
村名 民家数
関戸村 68
連光寺村 84
貝取村 45
乞田村 63
落合村 89
和田村 37
寺方村 14
一ノ宮村 不明


図1-7 旧八か村の位置

 神社(といっても小祠ていどのものが多かったかと思われるが)は合計二〇余、寺堂も合計二〇余あり、寺堂には曹洞宗と新義真言宗のものが多かった。また、御嶽講・石尊講(大山講)のような代参講や、念仏講・庚申講等々多くの講が、江戸時代の比較的早い時期から組織されていた。有志による伊勢参宮もしばしば行われていたようである。
 生業はもちろん農業であったが、一ノ宮村のように多摩川に近く平地の多い村は別として、丘陵地に展開する大部分の村は田よりも畑が多かった。それらの畑には麦・粟・稗・藁麦・大豆等々が作付されていた。秣場(まぐさば)を田畑に開発する試みもしばしばなされていたし、また、肥料や燃料の採取場としての秣場をめぐる村同士の争いも少なくなかったようである。田に引く水の争いもめずらしくなかった。畑には、穀物のほか、すでに元禄十六年(一七〇三)に寺方村で煙草が自家用として栽培されていた。江戸時代後期になると桑畑もふえ、養蚕も漸次盛んになっていった。
 多摩川に近い関戸村では江戸時代初期から鮎を将軍家に献上していたし、鮎を鵜飼い漁法によって捕ることもあった。江戸時代も後期になると、農業の合間に商業活動をしたり、職人として働く人もふえた。一ノ宮村には多摩川の渡船場があった。
 関戸村からは、江戸時代中後期に活躍した狩野派の流れをくむ画家相沢五流がでた。
 江戸時代末期には、治安の維持を目的にして、周辺の村々との連合もはかられた。