3 近代の多摩市域

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 明治時代に入ると、さまざまな変革のなかで、先に述べた関戸村をはじめとする八か村および百草・落川両村の飛び地は、周辺の他の村々とともに神奈川県南多摩郡に編入された。そして、明治二十二年の町村制施行とともに、これら八か村と二つの飛び地が合併して多摩村を成立させた。多摩村は明治二十六年に神奈川県から東京都(当時は東京府)に編成がえになって東京府南多摩郡多摩村となり、多摩村が昭和三十九年にはそのまま多摩町に、さらに昭和四十六年には多摩市となり、現在にいたっている。その間、昭和三十年には連光寺地区の一部が府中市へ編入されたり、昭和四十八年には町田市の小野路町・上小山田町・下小山田町の一部が多摩ニュータウンの行政界変更で多摩市に加わったというように、市域にいくらかの変動がみられたとはいえ、現在の多摩市の範域は、明治二十二年発足の多摩村から大きな変更はない。
 多摩村発足当時の明治二十二年の世帯数は五三五、人口は三七七九で、それが平成六年十月現在では、世帯数が五万四一八一、人口が一四万五〇二一と膨張した。その過程については本章第一節の「3 世帯数・人口の変遷」で述べたとおりであるが、これら世帯数・人口の増加は交通網の発達整備と不即不離にある。人力車・馬車の時代を経て、大正十四年に現在の京王線が市域の北部を通り、市域には聖蹟桜ケ丘駅(当時は関戸駅)が設けられた。さらに多摩ニュータウンの開発に呼応して、昭和四十九年には小田急多摩線と京王相模原線が、市域のそれまで丘陵部分であったところに延長された。バスの運行開始は昭和二十四年であるが、昭和三十一年に入ると聖蹟桜ヶ丘駅から落合地区方面への市域中央部の路線が開設された。昭和十二年には多摩川に関戸橋が架かり、渡船によらずに対岸の府中へ行くことが可能になった。
 通信面では電話の利用が昭和八年に始まり、三十八年に自動式となって台数が急増した。一方、昭和三十七年から農協が有線放送を始め、昭和四十七年に廃止となった。上水道の創設は昭和三十七年以降である。また、市域全体に電灯がついたのは大正十四年であった。
 学校については、明治初期に寺院などに設けられていた学校が次第に整備され、明治中期以降は向岡(学区=関戸・連光寺)、処仁(学区=乞田・貝取・落合)、兆民(学区=和田・東寺方・一ノ宮)の三尋常高等小学校となった。明治四十五年にそれらが統合されて多摩尋常高等小学校が貝取一七二四番地に設立され、処仁・兆民はその分校となり、向岡は廃止された。以降、昭和三十八年まで本校一、分校二の状態が続いた。他方、青年教育のための裁縫や夜学の実業補習学校(のち農業公民学校)や青年訓練所も設けられ、それらは昭和十年には青年学校として統合され、終戦時まで存続した。戦後、学制改革によって多摩中学校が新設されたが、小学校の実態は戦前のままで(名称変更や高等科廃止はあったが)、ようやく昭和三十八年と四十年にいたって分校がそれぞれ独立の小学校になった。以後、人口が急増し、平成六年現在、小学校二四、中学校一五(公私とも)のほか、市域には高校や大学・短大も多数開設されている。
 地域の自治を考える場合、消防活動は無視できない。消防の組織としては、明治初期、旧村ごとに消防組があったが、明治二十七年に多摩村としての消防組が組織され、あわせて、第一部から六部までの部隊が整えられた。昭和初期には、それが本部と第九部までの組織となって戦後まで引き継がれ、昭和四十三年に、常設の多摩町消防署が設置された。その間、器具も腕用ポンプから動力ポンプ、さらには消防自動車が備えられ、防火水槽や火見櫓も各地に設けられた。
 大正十二年の関東大地震は市域にも大きな被害をもたらし、住家の全壊二七戸、同半壊五六戸、主家以外の建物の全壊五八棟、同半壊一七七棟であった。
 近代のたび重なる戦争が市域住民に与えた精神的物質的影響ははかり知れないが、そのうち人的被害について述べると、日清戦争には一〇数名が従軍して二名が公病死、日露戦争には一一三名が従軍して一二名が戦死している。日中戦争・太平洋戦争の戦没者は二〇九名にものぼった。ただ、当時まだ完全な農村地帯であったためか大きな空襲からはまぬがれた(『多摩町誌』による)。
 生業についても簡単に触れておくと、昭和三十年代までは農家が圧倒的に多く、米麦生産を中心とする農業が生業の中心であった。昭和二十五年の耕地面積は田が一七七町歩余、畑が二三六町歩余、樹園地が一八町余で、これは農家一戸平均五反七畝に相当する。米麦生産を主としながらも、明治初期から昭和十五年前後までは、初夏から秋にかけては養蚕に意欲を燃やし、晩秋から初春までは薪炭生産にも精を出し、これらを重要な現金収入源としていた。薪炭生産は昭和三十年代まで盛んだった。一方、家内工業としての目籠生産も無視できないもので、江戸時代末から昭和三十年代まで多くの農家が副業としてこれに従事していた。同時に、繭や薪炭・目籠を扱う大小の仲買い商や、製品の運送業者もいた。多摩川に近い関戸・連光寺・一ノ宮地区には、鮎漁を主とする川漁従事者があり、漁業組合も組織されていた。