1 多摩ニュータウンの建設

32 ~ 35
 多摩ニュータウンをぬきにして、現在の多摩市を語ることはできない。
 昭和三十年代に入り、わが国が高度経済成長期を迎えると、都市部への人口集中が激しくなり始めた。特に東京への流入は急で、それまでの東京の市街地ではとても収容しきれなくなって周辺の農村部がどんどん開発されだしたが、それらの中には都市基盤整備を無視した小規模な宅地開発も少なくなかった。そこで、国と東京都は多摩丘陵を拓(ひら)いて理想的な街を作り、大量の良質な住宅を提供すべく多摩ニュータウン建設にふみきったのである。
 多摩ニュータウンは、昭和四十年に約三、〇〇〇ヘクタールについて都市計画が決定され、計画区域が確定したが、それは現在の行政区域でいうと、多摩市、八王子市、町田市、稲城市の四市にわたっていた。特に中心に位置する多摩市(当時は多摩町)が一、二四七ヘクタールと最も広く、全体の四〇パーセント強を占めている。これは多摩市総面積の約六〇パーセントにあたる。このように、多摩市は実に総面積の約六割が多摩ニュータウンに組み込まれて開発されることになったわけで、近世の八か村と二飛地を継承した地区のうち、連光寺(れんこうじ)、乞田(こった)、貝取、落合、和田、百草(飛地)がそれにひっかかった。中でも乞田、貝取、落合は地区の大部分が多摩ニュータウンに含まれたため、ここでは、後背地の山林をも含めた従来の村落景観と人々の生活はまったく一変することになってしまったのである。

写真1-2 昭和40年の貝取地区瓜生の集落

 実際の開発事業は二つのエリアに分けて、主として東京都、住宅・都市整備公団、東京都住宅供給公社の三者によって進められた。このほか、学校・医療施設等の都市生活環境施設の整備には、多摩市など関係自治体や関係事業者も参加している。二つのエリアとは、人の居住していなかった丘陵地である山林部分と、集落部分(宅地と周辺の田畑など)とである。多摩市の場合のこれらの面積の比率は、前者四に対して後者は一であった。
 二つのエリアのうち、丘陵地である山林部分の開発は、先の三事業体が新住宅市街地開発事業として行い、ここに、三事業体それぞれが分譲と賃貸の大小多くの集合住宅を建設し(東京都は賃貸のみ)、さらに一部については宅地分譲も行った。この山林部分の土地は事業体が一括買上げて開発したために作業は比較的早く進んだが、もう一つのエリアである集落部分については、東京都が土地区画整理事業として行ったのであるが、昔からの多数の農家があって現に生活が営まれており、生活の糧として田畑が耕作されていた土地であるわけだから、山林部分のように一括買上げというというわけにはいかなかった。そこで、東京都が造成工事そのものを担当するかわりに、住民は道路拡張や公園用に自らの土地の一部を提供する方式がとられた。場所によって多少異なるが、平均してほぼ三割の土地が減歩になった。その結果、土地の形態は大幅に変更されて家のほとんどすべては建替えられ、屋敷林・竹藪は取り払われ、田畑の大部分がなくなり、屋敷裏や丘陵部にあった個人墓地や小祠も移動させざるをえなくなったのである。かくして、かつてほとんどが山林であった丘陵部に、一〇年を経ないうちに大小の集合住宅が林立するようになったとともに、谷戸の集落も景観を一変させてしまったのである。
 多摩市域の多摩ニュータウンへの入居は昭和四十六年三月から始まり、一時マスタープラン修正等のために中断した時期もあったが、造成、建築、入居はおおむね順調に進み、平成七年度末現在、ニュータウンの建設はほぼ完了している。その結果、かつて丘陵地の山林であった場所、すなわち新住宅市街地開発事業として開発されたところに、3DK・3LDKを基本とする二万六〇〇〇余戸(これは棟の数ではない)の居住空間が完成したのである。もう一方の集落部分のエリア、すなわち土地区画整理事業として開発したところには、旧農家である各地主が大小のマンション・アパートを建てたり、さまざまな事業所、商店が設けられたりしているので、正確な居住空間としての戸数は把握できないが、開発以前の集落戸数の数一〇倍に膨張したことは間違いないであろう。

写真1-3 平成3年の貝取地区瓜生

 このようなニュータウンの建設が引き金になり、ニュータウン区域に含まれなかった市域の他の地区にも、丘陵や田畑を造成して各種集合住宅が多数建築された。その結果図1-4に掲げたように昭和四十年代後半以降、多摩市の世帯数・人口は爆発的に増大したのである。