昭和30年ごろの一ノ宮地区の川崎街道。リヤカーに目籠を積みクズハキに行くところだという。茅葺きの入母屋の屋根が見える。右端はまだ珍しい二階屋。
(小暮幸一氏提供)
開発伝承はその地域の始原を語るもので、地域の神話といってよいだろう。ただ残念ながら、多摩市域の開発伝承は比較的希薄である。しかし地区によってないわけではないので、いちおう紹介はしておこう。
貝取地区には、瓜生(うりゅう)の奥の柳入谷戸のキリシマ山という所の麓から開けたという伝承がある。その瓜生は旧小野路村(現・町田市)瓜生山谷と関係があるかとされ、事実、かつてはつきあいがあったともいわれており、土地の人々の間には、村の開発を小野路とのかかわりで考える傾向が強い。
乞田(こった)地区には、「乞田六人百姓」といって、小田原北条の家臣六人が乞田に帰農してここの草分けになったという伝承がある。それは大貝戸(おおがいど)の小礒家伝来の「小礒家由緒書」によるもので、天正十八年(一五九〇)の小田原城落城の後、小礒将監持広が乞田に帰農し、乞田を持広のほか佐伯主水・浜田内膳・伊野間蔵(伊野内蔵カ)・有山東馬によって配分したのだというが、現伝承では乞田の草分けについて数軒の名が挙げられるだけで、確実なものはみられないようである。
各種開発伝承が歴史的事実を伝えるものであるか否かを検証することは不可能に近いが、地域の多くの人々によって信じられているということだけは事実である。伝承によっては、社会秩序や社寺の祭祀などその地域の現在と密接にかかわっている場合もあり、一般に開発伝承は、村落理解のために無視することができないものである。