1 地区の構成

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 ここでは、近世村を継承した関戸(せきど)・連光寺(れんこうじ)・貝取(かいどり)・乞田(こった)・落合(おちあい)・和田(わだ)・東寺方(ひがしてらかた)(江戸時代には寺方)・一ノ宮(いちのみや)という八地区について、世帯数・人口が急増する昭和三十年代以前において、地区内がどのような構成をとっていたか、またあるまとまった村落としてどのように組織されていたかをみることにしたい(現代の事情については、「第六節 現代の地域自治組織」参照)。なお、近世村の位置は第一章の図1-7を参照いただきたい。
 そのまえに、ここでいう村落とは、右の地区を指す語であるとともに、地区によっては、その中をいくつかに分けた各地域を指すものでもあることをお断わりしておきたい。要するに、確かな組織と会計を持ち、リーダーを選出し何らかの共有財産を管理したり互助共同の諸作業を行う、相互に熟知した人々の住むあるまとまりを持った地域を指しているのである。地籍上の範域ではない。
 なお、多摩市の現在の地区区分については、第一章第一節の「2 多摩市の地区区分」を参照いただきたい。
 市域の八地区には、家々が比較的固まっていて、それらが一組織を形成しまとまった村落運営をしている地区、家々がいくつかの固まりに別れ、固まりごとが一組織として別々に村落運営をしている地区とがあった。後者の場合にも地区全体としての組織がないわけではなかったが、それはおおむね、対役所関係の諸仕事とか太平洋戦争終戦以前の村社の祭りにかかわるもので、平素の生活においては、いくつかの固まりが独立した村落として機能していたといってよい。
 一地区一村落であったと考えられるのは関戸と一ノ宮で、東寺方がそれに近く、他は一地区が複数の村落によって構成されていた。これは多分に地形の関係によるもので、複数の村落からなる地区にはいくつかの小谷戸(やと)があり、小谷戸ごとに村落が形成されていったからかと思われる。小谷戸ごとの複数の村落が一つの近世村に組み込まれていくには、村ごとの固有の理由があったと思われるが、それらについては通史編での近世の説明に譲り、ここでは、近代における各地区の構成をみておきたい。
 まず関戸地区であるが、関戸地区の家々は、図2-1に示すようにいわゆる鎌倉街道に沿って展開し、村落の範囲はいちおう北は大栗橋から南は熊野神社までだと考えられている。ここでいちおうと断ったのは、熊野神社よりもさらに南に一〇世帯余の家があるからである。これらは地籍上は貝取になるが、貝取地区の飛地であり、貝取地区とは離れているのでそこの人々とは村落上のつきあいを持たず、隣接する関戸地区の人々とつきあっている。したがって、村落としての関戸は、現実には熊野神社より南の貝取飛地に居住する世帯をも含んではいるが、理念的には南は熊野神社までとされているのである。そして、鎌倉街道は南に向かってゆるやかな登りになっているために南の境の熊野神社が村落のもっとも上になり、「神社より上には家がでない」といわれている。

写真2-1 鎌倉街道(昭和30年ごろ)

 大栗橋から南に向かって街道をたどってくれば右側に地蔵があり、このあたりからが関戸地区の古い家並みであった。
 比較的古い家々を中心とする村落としての関戸の内部は、図2-1に示すように、一般に大きくカミとシモに分かれ(ただしカミ・シモにそれほど大きな意味はないようである)、さらにカミ・シモともに二つのコウジュウ(講中)に分かれ、各コウジュウはそれぞれいくつかのクミアイ(組合、クミともいう)に分かれていた。各クミアイ・各コウジュウには個別の名称はつけられておらず、日常生活の中で区別をする必要のある際にはどこかの家の名を冠して「○○さんのクミ(クミアイ)」とか、隣接するコウジュウを「向こうのコウジュウ」などというだけである。

図2-1 関戸のクミアイとコウジュウ

 クミアイひいてはコウジュウに加わっているのは比較的古い家々であるが、これらにも隆替がないわけではない。隆替の例は、転出家ツブレ家の家屋・屋敷を購入して入った場合には、前住者のクミアイに入ることが多い。転出やツブレの家屋・屋敷を購入して入る者がなく、そのまま荒地として放置される場合は一世帯減少となる。転入者による家の創出や在来家の分家もあり、この時には村落の世帯数はそれだけ増加となる。このように数年に一世帯ぐらいのゆるやかな隆替は、常にありつづけたようである。
 一ノ宮地区の家々の固まっているあたりは居村(いむら)と呼ばれ、他に五、六軒周辺部に散在していたが、これらを含めてまとまりを持った一村落が運営されていた。その内部は、上・中・下の三コウジュウに分かれ(明治初期には上・下の二コウジュウだったという)、各コウジュウはいくつかのクミアイ(クミ)に分かれていた。
 東寺方地区は有山、宿(しゅく)(原関戸)、山根、落川からなりたっていた。そしてコウジュウは有山に一つ、宿に上・下の二つ、山根に第一・第二の二つ、落川に一つあった。東寺方地区は家々の固まりとしては確かに有山・宿・山根・落川に分かれ、歴史的にはそれぞれ独立した一村落であったと考えられるが、落川を除いては家々を結集させる神社もしくは小祠も持たず、役員選出も東寺方全体として行い、さらには東寺方として山神社を祀っているのであるから、景観的には四集落独立のように見えても、社会組織上東寺方は一村落であったといえる。かつての有山・宿・山根・落川の独立性は、少なくとも明治末期には東寺方地区の中に解消させられてしまっていたと考えられる。
 一方、連光寺地区は家々が四つの固まりに分かれ、本村(ほんむら)、馬引沢(まひきざわ)、船ヶ台、下河原(現府中市)と呼ばれていた。そしてそれらが独立した村落として機能し、それぞれ内部はいくつかのコウジュウ(例えば本村は四コウジュウ)やクミアイ(クミ)に分かれていた。

写真2-2 連光寺地区馬引沢の三叉路(昭和42年)

 貝取地区は、乞田川右岸の旧小野路村(現町田市)へ抜ける旧鎌倉街道に沿った小さな谷と、その谷の西の小高い丘を越えたもう一つの小さな谷の入り口とに家々が固まっており、前者は瓜生、後者は貝取と呼ばれていた。瓜生・貝取ともに、昭和四十年代からの家の急増以前には二〇世帯前後の時代がつづき、それぞれ瓜生コウジュウ・貝取コウジュウという一つのコウジュウであり、コウジュウが村落としての機能を果たしていたということができる。
 乞田地区は、乞田川に沿って家々が幾固まりかに分かれており、固まりごとに谷戸根・久保谷・平戸・大貝戸(おおがいど)・永山と呼ばれ、それぞれ一つのコウジュウをなしていた。と同時に、谷戸根・久保谷・平戸の三コウジュウが上乞田、大貝戸・永山の二コウジュウが下乞田とも呼ばれていたが、村落の機能がどの段階にあったのか確たることは述べがたい。大貝戸・永山のように世帯数の多いコウジュウ(昭和十年代で三〇世帯前後)では独立した村落運営をしていたと考えられるが、世帯数の少ない谷戸根・久保谷・平戸では三コウジュウをあわせた上乞田という組織が一つの村落と考えられるからである。
 落合地区は市域南西部の広い丘陵地帯を占め、家々は丘陵の谷戸部分にほぼ固まりをなして分散し、固まりごとに下落合・青木葉(おうきば)・山王下(さんのうした)・中組・唐木田(からきだ)と呼ばれていた(図2-2参照)。そして、それぞれが一つのコウジュウと呼ばれており、同時に独立した村落の機能を果たしていたといえる。

図2-2 落合地区のコウジュウ

 和田地区は和田村がすでに江戸時代に上和田(あげわだ)村と中和田村という二近世村に分かれたうえ、現在の日野市に属する百草村や落川村の飛地があったりして、地区の構成は複雑である。しかしいちおうは、地区内西部の中和田、南部の上和田、北部の並木、南東部の百草が村落としての機能を担っていたとみることができる。