昭和三十年代半ばまでは、高度経済成長の影響もなかったため、長年居住してきた人々の生活は、生産・消費両面で居住地周辺の田畑や雑木林に強く依存していた。同時に少数の人や特別の機会を除いては、居住する村落や近隣の村落以外の人々と直接に接する機会は少なかったといえよう。逆に、居住する村落の人々・家々については知悉していたと言っても過言ではない。それだけに、対象は狭くかつ内容的に限定つきながらも、自治の意識は強かったといえる。
本節では、年代的にはほぼ明治末期から昭和三十年代までを中心に、村落内の自治とさまざまな互助の慣行について述べるが、諸伝承がそれ以前からのを継承していることは十分考えられ、また現在に生きているものも少なくないであろう。
まず、村落の役員について触れておく。
太平洋戦争前には、主として役場との連絡交渉のために、だいたい地区単位に区長・副区長が置かれていた。戦時体制下では、ほぼコウジュウ単位ぐらいで常会が結成させられ、常会長が選任されていた。これらは、いうなれば官製の役職である。戦後は、地区単位とかコウジュウとかさまざまな単位(すなわち実質的に村落単位ということ)ごとに、自治会(部落会と呼んでいた例もある)が結成され、自治会長や書記・会計係などが選ばれた。世帯数が急増しはじめると旧来の自治会が分割する一方、新たな家々同士による自治会も結成され、平成七年現在、市域には自治会に相当する団体が一六〇余存在している。これら現代の地域自治組織については、第六節において言及したい。
以上のような自治会長とか、昭和二十年以前の区長・常会長とは別に、各村落ではどのような役員を選んで村落運営をしていたのであろうか。幾例かみてみたい。
写真2-3 回覧板
写真2-4 現在の自治会の掲示板
関戸地区の場合には、年間をとおして関戸全体の世話をするのが氏子総代三名(かつては二名の時代も)で、カミから二名シモから一名出ていた。このほか、毎月交替の月番が二名選ばれ、祭りの世話、休みのフレ(触れ)、災害や事故の処理などにあたった。月番に当たると「関戸組」と書いた提灯が回ってき、終わるとそれを次の当番に引継いだ。
昭和三十七年以降、市域の神社の祭日は九月の第二日曜日に統一されているが、それ以前の関戸では、九月二日に九頭龍(くずりゅう)神社、九月二十九日に熊野神社、十月十日に琴平神社の祭りが行われていたので、その月の月番にあたると祭礼の世話で忙しかった。また、田植え後の休みや夏の日照り続きの後の降雨の際の休みはショウガツ(正月)と呼ばれ、このフレも月番から出され、「○○正月だよ。回してくんな」などといって、イイツギ(言い継ぎ)で家順に知らされていた。
多摩川が大洪水になると、かつては堤防や橋が損傷しそうになることがしばしばであった。その時には月番が中心になり、関戸全体の人が出て堤防の応急処置をしていた。
貝取地区では、地区全体の区長・副区長は、瓜生・貝取両コウジュウの家々が合同で正月に大福寺などに集まって選んでいたが(だいたい両コウジュウで区長・副区長を交替でつとめることが多かったようである)、これとは別にコウジュウには、例えば瓜生の場合には、年番(ねんばん)という役員が、かつては家並み順に毎年三世帯(のち五世帯)ずつ選ばれ、神社や講行事(念仏講など)の世話をしたり、道普請の指揮や農休みの決定などをしていた。その中から互選で年番長を決め、年番長が集会所や御嶽神社・地蔵尊の鍵を預かって、管理の責任者となっていた。この年番を、貝取コウジュウでは宮番とも呼んでいた。
東寺方地区には、全体を統轄する役として太平洋戦争終戦前には区長が選ばれていたが、戦後はそれが部落会長と名を変え、昭和四十年前後から自治会長と呼ばれるようになった。この人を中心にして道普請が行われたり、三日正月と通称されるムラ休ミが決められていたのである。ここはコウジュウの独立性がそれほど強くなかったのでコウジュウを統轄する役はなかったが、クミアイには伍長が決められていた。また、消防や農家組合の役職もあり、神社にはかつて氏子総代が四人いたほか、神社の年番が毎年一二人選ばれて祭礼をとりしきっていた。
なお、かつてクミアイ内の中心的な家を伍長といったのはほぼ多摩市域一般のことで、伍長は旧家で資産家がつとめたり、年長者のいる家が何年間にもわたってつとめる例が多かった。そのため、落合地区では、伍長はオヤカタとも呼ばれていた(クミアイ内のオヤカタと呼ばれる家が伍長をつとめたという方が正確かもしれない)。