ムライリ

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初めに、貝取地区の瓜生コウジュウのムライリの例について述べたい。瓜生コウジュウの世帯数は、明治四十五年には二一であったのが昭和二十六年には二二になり、同六十二年にはそれらコウジュウづきあいをするのは一九となった。数だけみるとほとんど変更がないようであるが、図2-4に示すように家々には興廃があり、明治四十五年の二一世帯のうち、約四〇年後の昭和二十六年にも存続していたのは一五だけである。断絶もしくは他出した六世帯の内訳は、後継ぎが絶えたり、事業の失敗で田畑を手放して他出したり、もともと所有田畑が少ないため有利な職を求めて都市部へ移転したりというように、理由はさまざまであった。一方、昭和二十六年にかけて増えた七世帯は、隠居分家、分家、疎開者の定住、つてを頼っての入村者など、これもまたさまざまな理由にもとづいていた。

図2-4 瓜生の在来の家の変遷
明治45年のは「八幡神社氏子台帳」、昭和26年のは「穴掘り当番帳」の記載による。

 昭和三十年ころまでは、まったく見ず知らずの人が村落内に家を建てて住み着くことはほとんどなく、他所からの来住者の場合でも誰か知り合いの家があって居を定めていたので、その人の口ききで、前もってコウジュウの役員である年番長などに挨拶したうえで、寄り合いのときなどに酒一升ほど持って行きムライリした。分家の場合には、本家がそれらの世話をした。
 嫁は婚礼の次の日、ツギメあるいはムラアルキと称してコウジュウ全部を挨拶廻りに歩き、寺や神社にも参った(披露宴のとき座をはずして挨拶に出かけることもあったという)。これらツギメには正装し、ジシンルイもしくは同じクミアイの年輩の女性に連れられ、手拭いか半紙二帖に水引をかけ名前を記したものを持って歩いた。ホテルなど自宅以外で婚礼を行うようになってからも、家の跡取りと決められている人に嫁いだ場合には、このツギメはだいたい行われている。なお、入婿の場合には、コウジュウ内のみならず、貝取地区全体の主だった人の所へも挨拶に出向くことが多かった。

写真2-5 嫁の村歩き(昭和35年ごろ)

 関戸地区の場合には、移住してきた家や分家が村落としての関戸地区の一員になるときには、まずクミアイへの加入の際にクミアイ各家へ手拭いなどを持って挨拶まわりをし、さらに村落全体へはヨリアイの時などに酒一、二本を出して挨拶をしていた。また、親が老齢化し息子が一人前になった時にも、ヨリアイの席などで親が、「これから息子も自分の代わりによろしく頼むよ」などと挨拶をした。
 形式的には、市役所(町役場)へ転入届や婚姻届を出すだけで市域の住民になることができても、後述するようなさまざまな互助協同によって緊密に結合していたかつての村落の実質的な一員になるためには、右のようなムライリの手順がとられなければならなかったのである。