馬車や牛車の轍(わだち)にえぐられてすぐ凹凸ができたし、主要道以外の枝道(ウチミチなどとも呼ばれた)などになると、霜が降りるとどろどろにぬかるみ、乾くとほこりがたち、さらに夏には両側から草が覆いかぶさるという状態だったので、どの村落でも定期的に春と秋の二回、ほぼ彼岸のころに道路の補修をしていた。これは、各家から一人ずつ鍬やスコップを持って出て行う協同作業で、出席できない家はだいたい出不足金を支払う決まりになっていた。
どこからどこまではどの村落が担当と決まっており、担当区域の草を刈ったり、近くの川から砂利を掘り出したり多摩川まで砂利を取りに行って路面に敷いた。終わると道の辻や役員宅の庭先などで、皆で軽く飲食していた。春秋二回の定期的な道普請のほか、台風のあとなど道路の傷みがひどければ、臨時にも行った。この時には、路肩が崩れていると山から木を伐り出して杭を打って補修したし、小さな橋などが壊れていると皆で作り直したりしていた。共有山の木を用いることもあったが、補修に必要な材木や竹・釘・道具のほか、それらを運ぶリヤカー・牛車などは、村落内の余裕のある家で負担する場合もあった。このように、かつてはあまり役場に頼らずに、自らの道路を維持管理する慣行が確立していたのである。
写真2-8 農道の工事(昭和29年)