多くの村落には、農業に必要な肥料用の若芽・若枝を伐ったり落葉を採取したり、燃料を得たりするための共有林や、屋根葺きの茅刈り用の草地があって、これらの維持管理は重要な協同労働であった。共有地の一角をコマステバ(駒捨て場)にしている例もあった。また、水田農耕に欠かせない灌漑用水の管理も関係者の協同労働によってなされていた。
関戸地区の共有地は、多摩川の河原や連光寺(れんこうじ)地区との隣接地などにいくつかあったが、利用は薪など取りに行くくらいで、くず(落葉)を掃いて堆肥にしたり茅刈りなどはしなかった。河原の共有地は石の多い荒地で、ここで草競馬を催したこともあったという。共有地の多くはすでに住宅地として売却され、その収益金は熊野神社に寄付されて祭礼用具購入などにあてられた。
貝取地区のは、貝取・瓜生両コウジュウの共有地で、瓜生の奥の方の柳入谷戸入口の崖のような急斜面にいくらかあった。ここの崖からは壁土に用いるのによい土が出たので、それを壁土にしたり田の畦(あぜ)ぬりに用いたりしたほか、ここに植林しておいた杉や松を、道普請の際に路肩修理の杭にしたり土橋を架けるのに利用していた。これら共有地の植林や夏の草刈りには、一家から一人ずつ出て作業をした。しかし、多摩ニュータウン建設による区画整理で狭くなってしまい、残ったわずかの共有地は、昭和六十二年現在、両コウジュウの代表者名儀で登記されているようである。
一ノ宮地区にも多摩川河川敷などに山林・原野の共有地があったが、多くは小野神社に奉納されて社有地となり、その一部は現在市営住宅や駐車場に利用されていて、地代は祭典費にあてられている。これとは別に、連光寺地区内に一ノ宮地区の飛び地があり、かつては薪炭生産や屋根の茅刈り用に利用されていた。屋根葺きの際には、各家で協力してここまで馬や荷車をひいて茅を取りに行ったという。
一方、各村落とも用水にかかわる慣行もあった。連光寺地区の本村(ほんむら)では、田植え前の用水路の堀浚(さら)いも協同労働の一種であったが、田を所有しない家もあったので村落総出の仕事ではなく、用水の水系ごとに関係する家々で申し合わせ、前年の秋以降たまった泥をさらい両側の草を刈って水の流れをよくしていた。
乞田地区では、農業用水に溜め池と乞田川の水とを使っていたが、乞田川を用いる田は水不足で困ることが多かったという。そのため足りなくなり始めると、田の面積に応じて水を分ける時間を決め、時間がくると堰へ行って自分の田に水を引いた。寝る前と夜中の零時・二時の三回ぐらい、堰(せき)ごとに水番といわれる見張りを出し、不正に水を引く者がないようにしていた。
和田地区では、川沿いに堰の管理や堀浚いをする用水組合を作り、協同でことにあたっていた。大栗川沿いの横倉橋の上手に堰があり、水田の多くはそこの水を利用していたが、多摩ニュータウン造成に伴う川の整備の際に、もう堰は作らないというので保証金をもらい、ほとんどの水田はこの時で耕作をやめたようである。