建築と屋根普請

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家の新築とか茅屋根の葺替えは、その家独自の仕事ではあるが、職人のほかに多くの人手を要する作業であるため、かつては作業の規模に応じて、親戚をはじめコウジュウやクミアイなど村落の家々がさまざまな扶助をしていた。その際、手伝いに来てくれた人には昼食を出すくらいで一般に手間賃は支払われず、一方的な労力供与のようではあったが、お互いさまのことであり、数年一〇数年単位でみると村落内における一種の協同労働だと考えることができる。
 家の新築は毎年あることではなく、また、建築にあたっての扶助は建前の日などに集中していたが、それに対して、茅屋根は三〇年ぐらいで葺替えていたために村落には毎年必ず一、二軒葺替えをする家があり、そのうえ、手伝いの期間も葺上がるまでの数日間にわたった。そのため屋根普請は、村落の成員にとって、道普請や用水浚(さら)いなどと並ぶ毎年の決まった協同労働であったのである。したがってここでは茅屋根の葺替えである屋根普請についてみてみたい。
 現在、多摩市域には、多摩ニュータウン区域内にはもちろんニュータウン区域外においても、茅屋根の家は皆無に近くなっている。しかし、昭和二十年代までは葺替えも盛んに行われていた。その際の家々の協力の慣行は、村落によっていくらかは異なるといえ、大同小異といってよい。以下、貝取地区の例をいくらか詳しく述べることによって、市域全体の例を推し測ることにする。

写真2-12 屋根葺替えの足場を組む

 貝取地区では茅は葺替えをする家で調達した。茅刈りは秋末から冬にかけて行った。自分の山を持っている家ではそこで刈り、山のない人は金を少し出して山持ちに刈らせてもらったが、しばらくは葺替えする予定のない家では、刈った茅を売って冬の現金稼ぎとしていた。二、三年後に葺替えを予定している家では、その心づもりで主屋の二階(屋根裏)や物置などに少しずつ茅を蓄えておいたが、前もって蓄えておいた茅だけではどうしても量的に不足なので(とくに主屋の葺替えなどには)、秋末になるとあちこちの山で刈ってそこへ固めておき、葺く数日前にクミアイの人などに頼んで家に運んでもらった。このほか、屋根をむいて出た古茅のうち使用可能なものを再び用いたり、麦藁を混ぜることもあった。
 屋根葺きには、茅のほかに多量の竹と縄も必要であった。竹はキリシン(切り旬か)といって秋の十月から十一月末までに伐った真竹がよいとされた。縄は一般に藁縄で、一年ぐらい前から少しずつ準備をしておいた。
 屋根職人は地元の貝取地区周辺にもいたが、秋の末になると会津(福島県)から、四、五人組んでやってくる職人に頼むこともあった。地元の職人にも、会津の人が定着したり、会津の人から技術を教わった人がいた。
 葺替えるには多くの人々の助力を求めねばならないので、前もってヨリアイなどで了承が求められていた。多くの希望者がある場合には、屋根の傷み具合や前に葺いた年などが勘案され、次年度に回されることもあったようである。
 日取りが決まると、当家の人が、前もって手伝いを求め、各家へ日を知らせて依頼に歩いた。手伝いはクミアイの家が主になり、これにジシンルイなど親戚の者が加わった。建物の大小によっても異なるが、大きな主屋の場合(主屋を葺くのを本普請と呼んだ)には、クミアイだけでなくコウジュウの家々全部が手伝いに出た。小さな屋根でもクミアイでは義理として手伝いに出たが、ごく小さな物置や小屋などの場合には手伝いを求めず、屋根職人とその家の人とで作業をしてしまうことが多かった。
 手伝いの内容であるが、同じクミアイの人は、屋根葺きの当家で秋以降刈ってあちこちの山へ積み固めてあった茅をその家へ運ぶことからはじめ、屋根むき、葺替えというように、完了するまでは数日間手伝いに出た。本普請の際には、コウジュウの人々もこれらのことを全部手伝った。エエ(ユイ)仕事なので当然報酬はいっさい支払われなかったが、昼・夕の食事は当家が準備した。
 右のような実作業のほか、協力すべき慣行には次のようなこともあった。手伝いに出る家(主として同じクミアイの家々)は、普請見舞いということで藁縄を一ワ(二ボ)ぐらいと茅を少々持参し、クミアイの女の人は昼・夕の勝手向きを手伝った。また、本普請の際には、新築の上棟式のときと同じように、本家とか嫁・婿の実家からハンダイが届けられた。これは、飯台という丸い器一対(二箇)に赤飯を山盛りに入れて届けることで、赤飯は手伝った人々に祝いとして振舞われたのである(この飯台は不祝儀に際しても届けられた)。親戚が多くてハンダイがたくさん届けられそうな場合には、持参する方であらかじめ相談して赤飯持参の家を決めたり(その他の家は米など持参)、当家の事情を聞いて、ショウ(生)で欲しいということであれば、赤飯ではなくハンダイに糯米と小豆を入れて届けたりしていた。もらった方の家では、これらを紙に書いて貼り出し、皆に披露したのである。このハンダイが、当然届けられるはずの親戚から届けられていない場合には近所の人々の密やかな話題となり、もらうべき当家では面目を失うことになって、その後の親戚間の感情のもつれに発展することもあったくらい、ハンダイは果たさねばならない義理であった。
 なお、茅刈り関連で付け加えておくと、貝取地区の貝取コウジュウでは、不在地主の所有していた茅場を共同管理していたので、ちょうど冬至のころ、家々から一人ずつ出てここの茅を刈り取り、それを売ってコウジュウの会計に入れていた。