農作業に際しても、家相互で助け合って作業をした。もっとも一般的なのは水田耕作の苗取り・田植え・稲刈りなど一度に多くの人手を要するときで、あらかじめ了解しあっている数軒の家々が組んで順番に仕事を助け合ったのである。金銭による礼はせずに等量の労力交換を建前とするもので、エエシゴトなどと呼ばれていた。茶摘みなどもエエシゴトでしたが、どの家にも多くの茶畑があるわけではなかったので、その場合にはできあがった茶を持参してお礼をした。エエ(イイ・ユイ)はモヤイともいわれることもあったが、モヤイとは何かを協同で行うことだったという。スケルというのもエエと似ているが、これは一方的に手伝うことで、労力の返却は必ずしも求めていない。これらはかつて市域一円に存在していた労働慣行である。
例えば、連光寺地区本村ではモヤイの語がよく用いられたという。モヤイのグループは主として田の水系ごとに構成され、同じ用水路の水を協同使用し作業を助け合ったので、そう呼ばれたのであろう。これら数戸の家々の中に牛馬を所有する家があれば、その家が中心になって畜力を用いての代掻(しろか)きを担当し、他の家々は植え付け(これを植え田と呼んだ)作業を分担した。作業は用水の下手、あるいは端の田から着手した。つまり、水の回りの悪い田から手をつけていったわけで、上手や用水の幹線沿いの田は、水門を開ければすぐにでも水を満たせるので後まわしにされた。このように、同じ用水を用いる家々全部の協力によるモヤイ労働が行われていたのである。すべての水田の田植えが終わると、モヤイに参加した家々が集まって、マンガアライもしくはマンノウアライと呼ばれる祝宴が催された。