ほとんどの家が農業を主生業にしていたり、作代(さくだい)と呼ばれる下男をまだ雇っている家の少なくなかった太平洋戦争後間もなくまでは、農休みの日を決めて村落の人々が一斉に休みをとることがあった。それには正月や盆、祭礼などの毎年決まった休みと、そのつど役員が日を決めてイイツギ(言い継ぎ)によって知らされる臨時の休みとがあった。後者の休みには、種蒔き後のナワシロ正月、田植え後のマンガアライ、日照りの続いたあと慈雨に恵まれたときのオシメリ正月(雨降り正月ともいわれた)などがあり、三日間と決められることが多かったので、これらの休みは一般に三日正月と総称されていた。三日間と決められても実際にのんびりするのは半日ぐらいで、あとは屋内や屋敷内の仕事をしていたという。
なお、夏のオシメリ正月に関連して、かつて市域で盛んに行われていた雨乞いについて少し触れておきたい。その行い方は村落によって異なっていたが、連光寺地区の本村では、日照りが続いて農作物の生育に影響が出始めると、若者が集まって春日神社の神輿を担ぎ出し、大栗川の河原まで練り歩いて、そのまま水に入って雨乞いをした。集まった村人たちは「さーんげ、さーんげ、どっこいしょ」と掛け声をかけあって太鼓を叩き、川の水を神輿にひっかけ、さかんにはやしたてる。さらに若者たちは、ずぶぬれになった神輿を担いで村落内を練り回る。こうすると雨が降るといわれていたが、降らないときにはこの雨乞いを繰り返したという。落合地区では、大正時代初期には白山神社で獅子舞をしてから地区内を練り歩いて雨乞いをしたという。また、白山神社の池も雨乞いの場であったし、昭和の初期には雨乞いの木としてナンジャモンジャの木を植えたこともあったといわれている。
写真2-13 白山神社のナンジャモンジャの木(昭和15年)
このように、だいたい昭和三十年代までの多摩市域には、村落の安寧を保つためのさまざまな協同労働の慣行が維持されていた。これらの大部分は、現在、例えば道普請や防災が役所に任ねられ、茅屋根がなくなるとともに屋根普請が不必要になり、さらに農業労働の変化とともにエエシゴト・モヤイ等の相互扶助がなくなったように、ほとんどが消滅してしまった。しかし、旧来の協同労働慣行の大部分が不必要になったとはいえ、村落に相当する現在の地域社会における人々の互助協同は、新たな装いをこらして存在しつづけている。それらについては、本章第六節の「現代の地域自治組織」において述べることとする。