葬式は親戚やクミアイの家々のみならず、クミアイがいくつか集まった地縁組織であるコウジュウすべての協力によって執り行われた。ただ、実際の仕事には葬家や親戚はあまりかかわらず、クミアイの家々を中心にコウジュウすべてが分担した。その数日間、人々は野良仕事を休み、葬家での仕事にあたったのである。
死が確認されると、その家の人はまず伍長などクミアイの役員に知らせて手伝いを依頼した。すると伍長はクミアイの家々すべてと、コウジュウ内の他のクミアイの伍長にも知らせ、コウジュウ全体への徹底をはかる。あとは、伍長やクミアイ内の経験豊かな年輩者が中心になって、葬家の意向を聞きながら慣行に従って葬式の段取りを決めた。
クミアイの家々では夫婦で手伝いに行き、女の人は台所仕事をし、男の人はヒキャク(飛脚)に出たり、寺や役所への連絡、帳場の仕事、客の接待や棺(ガンバコという)の支度を担当した。台所仕事とは、通夜や葬式当日の食事、タイヤク(穴掘り当番)への食事、念仏講の人々などの食事の準備や、葬式当日の午前中に寺へ届ける四十九日の団子作りなどすることである。
ヒキャクとは、遠方の親戚などへ死亡を知らせに行く役のことで、まだ電話がなく交通機関も発達していなかったころにはたいへんな仕事であった。親戚が多ければ何組もヒキャクを出さねばならず、それも早く知らせなければならず、人手を要した。ヒキャクが死を知らせにいくことはサタに行くともいわれ、必ず二人一組で出かけ、かつてはジンバシオリで地下足袋などといういでたちで行った。このヒキャクを迎えた家では、すぐに白飯を少し炊き、それに汁や酒などを添えて接待する慣行があり、ヒキャクはそれを土間のコエン(小縁)などに腰掛けて食べるのが作法であったという。
同じクミアイ以外のコウジュウの家々ではおおむね各家一人ずつ手伝いに行き(日頃とくに親しい家では二人で行った)、棺に載せる天蓋作りや草鞋(わらじ)・アシナカ作り(これらは棺を担ぐ人などが履く)、縄ない(棺を墓穴へ吊り下ろすのに用いる)、笊(ざる)作り(笊は埋葬した上へ竹の棒などにつけて立てる)などの仕事を担当した。これらはクミアイの人も手伝うことがあったが、クミアイの人々はヒキャクその他の仕事で忙しかったので、コウジュウの担当とされていた。
昭和四十年ごろまでは土葬が圧倒的に多かったので、さらにコウジュウの重要な仕事として、墓穴掘り役があった。この役はアナホリ・アナバン・アナヤ、それにタイヤクとも呼ばれ、家順で四人ずつ男がつとめたが、葬家と同じクミアイや親戚の家、未成年の男子しかいない家、妊婦のいる家は当番からはずされた。しかし、長い年月の間にはどの家も平等にこの役をつとめるように、各コウジュウとも長年の穴掘り当番を記した帳面を持ち伝えており、それを見て当番を決めていた。葬式は昼すぎに出されることが多かったので、墓穴掘りはだいたいその日の午前中に、コウジュウごとに準備されている穴掘り用の半纏(はんてん)(葬式バンテンなどと呼ばれている)を着て掘ったが、掘っているところへ、台所仕事を担当しているクミアイの人が酒一升に豆腐や握り飯を添えて持参した。そして、これらの食物は残さずに全部飲み食いすべきものとされていた。同時に、掘っているとしばしば、以前に葬った遺体の頭や足の骨、頭髪などが出てきてびっくりさせられることがあったというが、そういうときにはこの運ばれてきている酒をかけて清めてやり、あとで棺と一緒に埋めたという。
穴掘り役は不浄役で、墓穴掘りのほか、葬家から埋葬地までの棺担ぎも担当する場合が多かった。コウジュウによって多少異なるかとも思うが、貝取地区では、出棺の際に、一番鉦、二番鉦、三番鉦と三回鉦が叩かれる。クミアイかコウジュウの人の中から鉦を叩く役を決め(比較的年長者がつとめた)、その人は僧侶の読経の進み具合をうかがいながら一番鉦を叩いてそろそろ出棺だと知らせ、二番鉦で間近かだと知らせて人々を集め、いよいよ出棺の態勢が整うと三番鉦を叩いて棺を出すようにした。そして、庭先で諸種の儀礼をすませてから野辺送りになったが、埋葬地に着くと、棺かつぎの人が棺を包んである晒衣をとり、棺に縄をかけ吊り下げるようにして墓穴に納めた。この棺かつぎ役四人は墓地から戻ると葬家で食事をよばれたが、このとき、棺を巻いていった晒衣(棺巻きといい一反分ほど用いた)を四人で分けた。この衣は、あとで六尺褌(ろくしゃくふんどし)などにしたという。
野辺送りから戻ると、夜、コウジュウの念仏講の人々によって念仏供養がなされた。これはコウジュウ念仏・タノマレ念仏などと呼ばれ、一世帯一人ずつ、主として女性が出て念仏唱和を行った。この時、葬家では念仏の人びとに馳走を振舞い、帰りには饅頭などを持たせた。また、親が亡くなった場合には、婚出している喪主の兄弟姉妹なども「兄弟中」として念仏講の人々に物品を持たせて帰すので、その経済的負担は大きかったという。
細部にわたれば村落によって多少の相違はあるが、以上のように、葬式に際してはクミアイ・コウジュウの家々によってさまざまな労力供与がなされていたのである。葬家では死者そのものにかかわっているだけで、葬式じたいはクミアイ・コウジュウの人々の労力分担によって執行されていたといえる。そして、すべての家々はいつかは葬家になるわけで、かつての葬式は村落の重要な互助協同の機会であったのである。