共有施設

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市域の各村落の共有施設には、集会所、火の見櫓・消防小屋など防火用の施設、神社や堂などの宗教的施設がある。これらは、正確にいえばほとんどが市(かつては町・村)や法人(宗教法人など)の所有施設であるが、かつて村落の人々が少なからぬ資財や労力を提供して設け、自らのものとして長年管理を続けてきた施設がほとんどで、村落の共有施設ということができよう。このほか、かつては渡船場や共同水車を所有する村落もあった。
 集会所は、ほとんどの村落で太平洋戦争後に設けたようである。例えば貝取地区の貝取では、村落の集会は役員宅を持ち回りで開催していたが、終戦後まもなく大福寺門前の寺の土地を借り、そこに各家からの材料提供と労力奉仕によって集会所を完成させた。すなわち、山持ちの家々が木を提供したので皆でそれを伐りに行ったり、またこれとは別に、各家が板何枚・トタン何枚というように少しずつ材料を出しあったのである。その後この建物は区画整理のために壊されたが、今度は資産のある家が市へ集会所用の土地を寄付し、そこへ市が建物を建て、今も用いられている。落合地区では昭和十五年に中組コウジュウが最初に集会所を建てたが、材木は持ち寄りだったという。

写真2-15 落合地区下落合の集会所

 連光寺地区の本村には共同水車があった。水車は地形の落差を利用して上から水を落として車を回し、その動力で臼をついて製粉・精米・精麦を行っていた。和田地区にも何か所かあった。市域の各地区にはかつてこのように水車が数多くあり、村落共同持よりはむしろ数軒の共同水車が主だったようである。また、和田地区の上和田(あげわだ)では、太平洋戦争後に一時クミアイ単位で動力脱穀機を購入し、共同作業をしたことがあるという。
 特異な例として、関戸地区では大部分の家が出資して多摩川に渡船場を経営していた。ここには水が少ないときには橋を架けていたが、いくらか水量が増すと橋板が流されないようにはずし、船を利用していたのである。船にはウマブネ(馬船)と人が乗る船とがあって、一年ごとにこの営業権を入札によって個人に売り、収益を分配していた。江戸時代以来のもので、昭和十二年に関戸橋が完成するまで存続していた。