管理と運用

79 ~ 82
すでに用いられなくなってしまった講中物は、現在、集会所の物置や個人宅の土蔵に眠っている。このほか膳椀類には、用いなくなってから各家々に分配したりしてすでに散逸してしまったものもあるかと思われる。このような諸事情を念頭に置きながら、だいたい昭和三十年代までの講中物の管理のしかた、用いられ方について述べてみよう。
 講中物の保管・管理は、祭礼に用いる用具は神社や小祠内に保管されたり、現在では集会所に収納されたりし、宮当番が管理している。
 念仏講の用具は、かつて念仏講を家持ち回りで行っていたころには、当番をつとめる家で保管していた。現在でも念仏講を続けているコウジュウはそのようにしている例もあるが、瓜生コウジュウのように集会所で講行事を行うようになっている場合には、集会所に保管されている。葬礼関係の用具は、寺に預けることもあったが、かつて土葬であったころには葬式を出した家でそのまま保管し、次にどこかで不幸が生じるとその家へ引き継ぐことが多かった。現在では用いられないまま集会所の倉庫や物置に保管されている。
 作業に用いる大梯子や足場用丸太などは大きな家が軒下に預かる例が多かったが、現在では散逸したらしく全く保有されていないといってよい。
 婚礼関係の用具や人寄せに必要な膳椀類は、一定の土蔵に保管されていた。このための専用の倉庫を持っていたのは、明らかになっているかぎりでは落合地区の山王下コウジュウだけで、ここには、広さが二間×九尺で、天井から壁面まですべて土造りの「講中物倉庫」があった。他のコウジュウでは有力な家の土蔵に保管を委ねていた。区画整理によってそれらの土蔵が取り壊されたコウジュウでは、現在集会所へ移管しているが(山王下の専用の土蔵も取り壊された)、区画整理の行われなかったところではそのまま旧家の土蔵に収納されている。このほか、乞田地区の平戸コウジュウのように、使用しなくなったからというので膳椀類を各家に分配した例もみられる。
 膳椀類を使用する時には、保管している家に行って借り出したのであるが、借用の時にはその旨帳面に記載し、また、その際一定の使用料をコウジュウに納めていたようである。乞田地区の永山コウジュウにはその時の帳面が残されているので、借用の実態を垣間見てみよう。
 この帳面は、表題が「明治四拾三年九月 膳椀使用人名簿 長(ママ)山講中」となっており、最初に次のような規約が記されている。
    規約
  膳椀壱回使用
   金拾銭也
  右之通り取極メ候也
   明治四十三年一月改メ
これによって、それ以前からあった規約を明治四十三年一月に改めたことと、当時、一回使用するたびに一〇銭の使用料を支払うことになっていたことがわかる。
 永山コウジュウの帳面には、つづいて明治四十三年三月十二日から昭和十六年七月六日までの一一一回の使用例が記されているが、いずれも、例えば「三月十二日 一、膳椀壱回 馬場倉之助」というような、簡単な記述に終始している。ただ、「柳樽壱回 同人」と別記されている箇所があり、婚礼に用いる柳樽(角樽)は、膳椀類とは別に使用料を支払っていたのであろうか。また、「大正拾四年 茶呑茶碗三十寄付」ともあり、講中物が時には寄付によって補充されることもあったようである。明治四十三年から昭和十六年までの三二年間にわたる年別使用回数は表2-3のとおりである。年により相当な差があるが、その理由は詳かでない。
表2-3 講中物の使用状況(永山講中)
回数 回数
明治43 5 昭和2 4
44 3 3 3
45 2 4 6
大正2 6 5 1
3 1 6 3
4 1 7 2
5 2 8 4
6 1 9 5
7 2 10 2
8 9 11 1
9 3 12 0
10 8 13 8
11 6 14 3
12 6 15 2
13 2 16 1
14 7
15 2


写真2-16 ハンダイ


写真2-17 挟み箱


写真2-18 椀


写真2-19 角樽

 この帳面の記載は昭和十六年で終わっているが、多摩市域全体では膳椀類がいったいいつごろまで使用されていたのであろうか。器物によって差があるであろうが、膳・椀・皿類は比較的早くに使用されなくなったようで、各コウジュウでの聞書きによると昭和三十年ごろが最後だとする例が多い。ちなみに、昭和六十二年の調査の時に、連光寺地区の東部下組の膳椀が昭和三十一年日付の新聞紙に包まれていたので、このころ以後包みをほどいていなかったことがわかる。一方、ハンダイや三々九度用具一式は最近までの使用例があり、関戸の第一コウジュウにはハンダイを昭和五十年代に借り出した家があり、同じく第三コウジュウには昭和六十一年に結納に使った家がある。