所蔵開始年代と動機

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それでは、このような講中物がいつごろ所蔵されだし、所蔵の直接の動機は何だったのであろうか。講中物に紀年名の記されている例は、念仏講の鉦など特殊な物を除いてほとんどない。しかし、膳椀類については、収納してある箱に年月日や数量や若干の所蔵動機が墨書されているものもあるので、それらをたどりながら所蔵開始年代と動機について考えてみたい。
 まず、念仏講の用具には、次のような銘があった。
○連光寺地区東部中組
鉦「武州多摩郡連光寺村船郷念仏講中 西村和泉守作」

○乞田地区谷戸根
鉦「明治三十三年子年一月吉日 谷戸根講中」

掛軸「念仏講中所有 昭和四年二月十六日求之 開眼者大福寺ニ於テ 塩山忍山」

○貝取地区瓜生
鉦「享保十八年丑正月吉日 武州多摩郡日野領貝取村内宇竜」

数取り器「享和二戌五月 浅草榧(カ)寺中哲相院講中諄(カ)誉代 比叡山天黒谷百万編(ママ) 願上此功徳平等施一切 同発菩提心往生安楽国 珠数一連大札一枚並木魚一ツ添」

○落合地区山王下
鉦「武州多摩郡柚木領上落合村女中念仏講中十九人 世話人藤右衛門母 宝暦十庚辰年十一月吉日」

鉦の座布団「昭和五年一月廿一日 春窓妙喜信女俗名小泉サダ五十二才」

○和田地区上和田
鉦「文化十四丁丑年八月 武州多摩郡日野領上ヶ和田村念仏講中 再願主石坂茂左衛門 西村和泉守作」

数珠の箱「上和田第一・第二念仏講中 昭和弐拾五年弐月新調」

木魚の箱「維時明治十九年十月十五日講中備之」「明治二十年二月十七日 大工石坂梅五郎講中寄付」

帳面①「明治十九年十月十五日 観世音什物講中寄付人名録 南多摩郡和田村上組講中」

帳面②「明治四十一年四月起り 高幡山不動尊愛国講人名録 一五人講中」

 以上の諸資料により、現存のもっとも古い鉦は瓜生コウジュウの享保十八年(一七三三)のものであり、つづいて山王下コウジュウの宝暦十年(一七六〇)のものであることがわかる。このことから、多摩市域の念仏講のいくつかは、少なくとも江戸中期以前の成立であることが推測できる。また、東部中組コウジュウと上和田コウジュウの鉦の作者が西村和泉守であることは注目すべきである。これらとは別に、東寺方地区宿下コウジュウの念仏講の鉦(杉田三郎家保管)にも「文政五壬午年十一月原関戸念仏講中西村和泉守作」と刻されており、文化・文政期に西村和泉守なる職人に鉦の鋳造を依頼する例の多かったことがうかがえ、市域における念仏講の普及定着を考える場合、興味のある資料かと思われる。
 次に、膳椀類および婚礼関係用具を揃え始めた年代について考えてみたい。それらを納めてある箱類には次のような墨書がみられる。
○関戸地区第三
三々九度用具一式「四千九百円也 昭和三一年五月二〇日 府中市一七六番地中万本店」(この例は、箱にではなく購入時の領収書に記されている内容)

○連光寺地区本村
吸物椀の箱「明治十年子ノ一月日 吸物椀廿人枚」「小松竹梅形 小形文平」

吸物椀「土」「小」(これは、土方家と小形家の家印である)

○連光寺地区東部中組
会席膳の箱「オゼン箱 昭和十一年参月吉日新調ス」

座布団箱「ザブトン箱 中組 昭和拾一年参月吉日新調一号」

○連光寺地区東部下組
講中物全体の箱「大正六年第三月拾五日新調 下組中 吸物椀箱」

○貝取地区瓜生
皿の箱①「明治拾五年午ノ二月吉日 皿拾人前入」

皿の箱②「南多摩郡 明治拾五年午八月吉祥日 皿拾人前」

皿の箱③「武蔵国第□ 拾人前(一〇名の氏名あり省略) 明治拾五年八月吉祥日」

椀の箱①「椀拾人前入 明治十五年午二月吉日」

椀の箱②「椀拾人前入 大正六年一一月廿四日改 平二拾人前但蓋弐個不足 坪二拾人前但蓋四個不足 椀二拾人前」

○乞田地区大貝戸
椀の箱①「(表)大正六年六月大貝戸講中 (裏)吸椀弐拾五人入寄付連名(省略)寄付金額(省略)

椀の箱②「八王子町栗原商店出 多摩村乞田下野三四郎殿行」(この箱のなかに七つの袋に分けて、椀が身四十二、蓋七十二個入っており、袋には個数が記されている)

○落合地区青木葉
椀の箱「明治八年新調 葬式用わん二式二十人分前有り」

椀「(身の底裏に)ス 庄」

講中物全体の箱「明治十六年第四月十一日求之 膳椀当用品 青木葉講中 但拾人前入」

○和田地区百草
膳の箱「(表)明治十二年卯第十月 箱三ツ之内拾人前 (裏)百草邨増島太兵衛」


写真2-20 膳の箱


写真2-21 講中物の膳


写真2-22 講中物の椀


写真2-23 講中物の椀

 以上であるが、婚礼用の三々九度用具一式については、関戸第三コウジュウのが昭和三十一年購入であるのがわかるほかは、揃えた年月の確実なことは不明である。大事に使われていたためもあろうが、他のコウジュウの三々九度用具もまだ全体にきれいで新しく、古くから備えられていたものとは思われない。
 膳椀類は江戸時代のは見当らず、青木葉コウジュウの明治八年のものがもっとも古い。そして明治十年代に揃えている例が多く(連光寺地区本村・貝取地区瓜生・和田地区百草)、明治初期にこの種の物を揃えようとする機運の高まったことが推測できる。
 膳椀類を揃えるにあたっては、大貝戸コウジュウの椀の箱の銘からもわかるとおり、費用を出しあって購入したと思われる。共有物としての講中物の性格上それは当然のことであるが、そのために、膳椀類一式を揃える音頭を取った瓜生コウジュウの有力者が豊かでない家からも均等に出させようとし、費用を出さないようならばコウジュウの成員とは認めないなどと言い放ち、他所への移住を強制したということも伝えられており、揃えるにあたって各コウジュウでは相当に無理したことであろう。また、すべてが新調されたものであるか否かは疑問で、椀類に旧家の家印がついているものが見うけられたり、百草コウジュウのもののように、かつては増島太兵衛家の所有物であったことが明らかであるものもあり(コウジュウが増島家から買い取ったと伝えられている)、旧家の膳椀類が講中物に流れ込んだ例も少なくないと思われる。