子供組

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確たる子供組という組織はなかったが、六、七歳から一三、四歳ぐらいまでの男の子が、大人の指導なしで集団で自主的に行動することはあった。神社の祭りや小正月のドンド焼(セーノカミ)、月見などがその主たる機会である。
 神社の祭りでは、地区の子どもたちが境内の掃除を担当したり、子供神輿や太鼓をかついで家々を回り賽銭をもらったりした。集まった賽銭はあとでオヤカタ(親方)と呼ばれる子どものなかの年長者が子ども仲間に分配したが、年の上の者ほど多く取り年少者には少ししか分配されなかったという。昭和四十年ごろまではこれら子どもたちの活動は相当盛んだったようであるが、学校から、金銭を集め分配するのは教育上よろしくないとブレーキがかかり、次第に行われなくなった。このほか、一ノ宮地区の小野神社の秋祭りには、祭りのだいぶ前から子どもたちが神殿に集まって万灯作りなどをしたという。
 小正月の火祭りであるセーノカミは、子どもたちによるもっとも大きな行事だった。セーノカミはコウジュウ単位でしたり一コウジュウを二つ三つに分けて行うなど、組織や内容は村落によって若干異なるが、一例として戦後しばらくまでの連光寺地区本村の様子を次に述べてみよう。
 正月十三日、本村中の子どもが集まり、向ノ岡橋近くの空地に円錐形のセーノカミの小屋を作る。小屋は数本の青竹を組んで骨組みとし、その周囲を正月飾りや注連縄などで囲み、内部は空洞にしてそこに丸太を井桁(いげた)に組んで囲炉裏を切った。これに用いる正月飾りや注連縄などの材料は、「縄と賽銭(さいせん)、藁おくれ」などといいながら、手分けして各家々を回って集めた。十三日夜、年上の子どもたちはこの小屋に泊まり込み、もらった賽銭で菓子を買ったり、餅を焼いたり汁粉を煮たりして遊んだあと、十四日、小屋に火をつけて燃やしたのである。なお、セーノカミに際しては、隣の関戸地区の子どもたちへの対抗意識が強くでた。対岸の大栗橋近くには関戸の子どもらの小屋が作られたので、互いに様子がよく見え、競いあって大きな小屋を作ろうとしたし、小屋ができあがると、川を挟んでさんざん悪口を言いあい、石を投げあうこともあったという。また、燃やす場合にも、関戸の小屋よりも先に燃えつきてしまってはだめだといい、畑から霜で萎えた甘藷の蔓などをとってきて小屋の中に詰込み、長くくすぶらせつづけた。そして、煙が関戸地区へなびくと「関戸をいぶせ、関戸をいぶせ」などとはやしたてたという。
 現在でも市域では小正月の火祭りは盛んであるが、ほとんどが子どもたち独自の行事ではなくなってしまっている。
 旧暦八月十五日夜に、子どもたちが数人のグループを作って、近所の家々の月見の供物を盗み歩くこともあった。各家では取りに来られるのをむしろ喜び、見て見ぬふりをしていたという。