これは、昭和三十年代までは市域のどのコウジュウにも組織されており、代表的な在地講といえる。集まって念仏をする機会には、月並み念仏(つきなみねんぶつ)、彼岸念仏、年一、二回の地蔵堂での念仏、葬式や年忌法要の家からの頼まれ念仏(キヨメ念仏・トムライ念仏とも呼ばれる)、家見念仏などがあった。講員は主として女性で、かつて新婦は婚入後すぐに姑から念仏和讃を教えこまれたという。
すでに講中物の説明の際に述べたとおり、現存の念仏講の鉦の銘から判断して、市域の念仏講の多くはすでに江戸時代中期には成立していたと思われるが、当時の念仏の機会は明らかではない。現在では、頼まれ念仏や家見念仏を除く他の念仏はもうほとんど行われなくなっている。その中で貝取地区の瓜生コウジュウでは、昭和六十二年現在まだ月並念仏も続けているので、瓜生の念仏講を一例として述べ、これからかつての市域の念仏講を推しはかってみよう。
瓜生の月並念仏は十六日念仏と呼ばれ、三・四・五月と九・十・十一月の十六日に各家一人ずつ年輩の女性が出てクラブ(集会所)で行っており(クラブ建設以前には宿持ち回り)、クラブには掛軸・鉦・大数珠等の道具一式が保管されている。一回二名ずつの念仏当番が決められ、当番は菓子や漬物など、念仏が終わった後で四方山話をしながら食べあう簡単な食物の準備をしている。月並念仏とは別に、春秋の彼岸には彼岸念仏をし、さらに十月九日には地蔵のオコモリ(お籠り)ということで同じく集まって念仏を唱えている。お籠りの際にはコウジュウの役員である年番も夫婦で出席して世話をし、また講員以外からの参加者もあるので、地蔵のお籠りの念仏は念仏講の行事というよりもコウジュウ全体の行事としての性格が強い。葬儀や年忌法要の際の頼まれ念仏もあるが、十二月だけは、葬儀があって念仏供養に出かけても念仏鉦は叩かず、鉦の代わりに葬家所有の一升桝の底を叩くことになっているという。