ニュータウンへの入居者だげでなく、太平洋戦争以前から居住している家々においても、近年の家族数の減少は著しい。しかし、昭和三十年代までの家は一つの世帯の中に親夫婦、若夫婦、子どもといった直系の家族が揃い、子ども数も多かったために、一世帯一〇人以上という例もまれではなかった。このほか、大きな農家には、家族同様にして作代・子守りなどという住込みの使用人もいた。住込みの使用人は、食い稼ぎということばのように、三食まかなうだけで給金は少なかったという。作代奉公人の中には、人柄と働きを認められて、その家から分家に出してもらった例もある。
囲炉裏(いろり)の周囲や座敷に坐る際には座順が決まっていて、ヨコザとかカミザには戸主が坐った。ただ、家督相続後も老親が健在なうちは座順変更がなされないことも多かったようで、座順は必ずしも家における戸主の地位を反映したものではなかったようである。なお、囲炉裏では座敷を背にして坐る位置をヨコザ、座敷では床の間に近い方をカミザといった。
長男子相続が原則で、相続の時期やその際の儀礼に特別な慣行はなかったようである。女子だけの家では必ず婿養子を迎えて、家・財産(田畑・山など)および墓・位牌などが後代に継承されるようにしていた。
同じ村落に分家を出す例もまれではなかったが、かつてはあるていどの財産がないとできないことであった。勤め人がふえたため、農地を分与する必要がなく宅地の分与だけでよくなった戦後になって、分家が多くなった。ツブレと呼ばれる跡が絶えた家で、建物や墓が残っているような家に入って再興する例もあった。これはツブレヲタテルといわれ、しばしばみられたという。これも一種の分家と考えられているが、家名は当然ツブレのを継ぐことになった。ツブレヲタテルのは親族以外でもよかった。また、かつては、親が第二子以下を連れて出る隠居分家もしばしばあったようで、インキョという屋号の家もあり、その中には隠居分家であったことが明らかなものが何例もある。この他、屋敷内にインキョベヤと呼ぶ建物を持つ家もあるが、世帯・屋敷地・建物・耕地などを完全に別にする隠居分家以外に、いわゆる隠居の慣行はなかったようである。一般の分家と同じく、隠居分家も財産のある家でないとできなかったとおもわれる。