戦中・戦後の部落会

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明治二十二年に多摩村が誕生すると(現在の市域はこのときにほぼ確定)、それまでの八つの旧村(近世村)を大字とし、それを、多摩村の下位組織として区と規定していたようである。区の中には旧村以来のいくつかのコウジュウ(講中)が温存され、区によってはこのコウジュウが互助協同の単位となり、昭和三十年代まで実質上の村落自治の単位になっていたことは、すでに述べたとおりである。
 ところで、この区は昭和十五年の内務省訓令「部落会・町内会・隣保班・市町村常会整備要綱」以来、部落会と呼ばれるようになった、現在、落合地区の山王下自治会に所蔵されている当時の諸書類によると、昭和十五年以前には、例えば、「昭和三年区費精算表 落合区」「昭和十年九月四日 (前期)落合道路改修費不足金徴収控 落合区」となっていたものが、それ以降は、「昭和十六年起 会費徴収簿 落合部落会」などとなっていることからわかる。同時に、コウジュウは常会と呼ばれていたようである。昭和二十年五月二十六日付で、当時の多摩村収入役が落合部落会宛てに国防献金一六三五円の領収書を出していることなどから、戦中の部落会の役割の一端がうかがえるが、この区・部落会の組織は、常に消防団の組織と密接不可分の関係にあったようである。戦後まもなくのころの部落会の実情についてはよくわからないが、部落会という名称は昭和三十年代後半まではまだ一般的に用いられていた。