新たな自治会結成の動き

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昭和四十年前後になると、既存の集落とは離れた田畑や丘陵地の山林が大小の不動産業者によって宅地造成され、そこに市域外から多くの人々が来て居住を始めた。新たな人々が比較的早くに居住を始めたのは交通の便のよい京王線聖蹟桜ヶ丘駅周辺であるが、しだいに連光寺地区や関戸地区・東寺方地区の丘陵地にも、まとまって家が建ち始めた。これらの人々の大部分は、はじめは在来の市域の人々とはほとんど没交渉であるうえ、同じ造成地に居を構えた新たな人々同士も見知らぬ者同士であった。しかし、数年住むうちにおのずと連帯意識も生まれ、さまざまな場面で地域の住民自治組織の必要を痛感するようになって、あちこちで新たな家々のみによる自治会が結成され始めた。このようにして、市域の自治会結成は第二段階を迎えるようになったのである。自治会によって結成の直接的動機や手法は異なっていると思うが、一例として、桜ヶ丘一丁目から四丁目までの自治会結成についてみてみたい。
 桜ヶ丘は、旧関戸地区と旧東寺方地区にまたがる霞が関山一帯の丘陵地を京王帝都電鉄が用地買収をし、昭和三十五年から高級住宅地として大々的に宅地造成された地域で、京王線聖蹟桜ヶ丘駅南側の丘陵地であるために、昭和三十七年五月一日に桜ヶ丘という町名が新設された。一丁目から四丁目までに分かれており、ほぼ一・二丁目の地が旧関戸地区、ほぼ三・四丁目の地が旧東寺方地区に属していた。昭和三十六年ごろから、まず造成の完了した四丁目の方から宅地の販売が始まり建築がなされて徐々に住民がふえ、昭和四十年ごろに最後の造成地である一丁目への居住がほぼ完了した。ほとんどすべて一戸建ての住宅で、一応の完成直後の世帯数は五〇〇前後であった。

写真2-33 桜ヶ丘団地の分譲地(昭和40年)

 このように昭和四十年ごろにはほぼ住宅街としての体裁が整ったが、自治会結成の動きはすぐには起こらなかった。見知らぬ家同士の寄り合いであるのと、都心部の宅地を処分してきた者の中にはかつての近所づきあいに辟易していた人が少なくなかったこと、それに、年輩者には戦時中の隣組を連想させる自治会に拒否反応を示す者が多かったからである。郊外にゆったりした住宅を構えたのだから、他人に気を使わず暮らしたいと思う人が多かったわけである。
 自治会結成の声は、小・中学校に子どもを通わせる父母の間から起こった。PTAの会合や学校の運動会で顔馴染みになり、自治組織がないと何かと不便だと感じるようになっていったようである。なお、住所は同じ桜ヶ丘でも小学校の学区は一~四丁目すべて異なっているので、当然結成の声は各丁目ごとにまとまっていったのである。
 それともう一つ重要な契機に、一丁目で昭和四十五年に発生した火災事故がある。火災は、多摩市(当時は多摩町)の消防署をはじめ各地区の消防団(すでに述べたように戦前からつづく既存地域には地域住民による消防分団が組織されていた)が駆けつけて鎮火させたが、消火活動が終わると消防署や他地区の消防分団はすぐ引き上げてしまった。しかし、火災は鎮火後の後始末がたいへんなわけで、自治組織を持たない桜ヶ丘の人々ではこのような非常事態にうまく対応できない。そこで、日ごろは全く交渉をもっていなかった関戸地区や東寺方地区の消防分団が、桜ヶ丘の地はかつて自らの地区内の丘陵地であったというよしみで、手際よく消失家屋残骸の後片づけをしてくれた。このようなことから、自治会の必要性が痛感され、結成の機運が急に高まったわけである。そして、勤め人の多い桜ヶ丘の住民たちでは消防団を組織することまではできないので、火災などの時には既存地域の人(いわゆる地元の人)に世話になるしかないということになり、自治会費から消防分団へ負担金を納めることも話し合われたという(これはのちに実行に移されている)。なお住民間の動きとともに、町役場からの、自治会結成への働きかけもしばしばなされたようである。

写真2-34 桜ヶ丘自治会館

 実際に自治会が結成されたのは、丁目によっても多少異なるが、昭和四十五、四十六年で、桜ヶ丘という住宅街が完成してから五年以上たっていた。一丁目では昭和四十五年九月に有志によって発起人代表が選ばれ、まもなく会の結成をみた。平成八年現在、加入世帯数六〇〇ほど。二丁目では有志によって昭和四十五年秋に「〝桜ヶ丘二丁目の集い〟へのお誘い」という書類が配られ、翌四十六年一月十七日に創立総会が開かれた。ここは自治会を名のらず、「桜ヶ丘二丁目の会」(略称、「桜二会」)と称している。現在、加入世帯数四〇〇ほど。三丁目では昭和四十六年春に結成され、ここでも自治会という名称は堅いということで、「みどり会」と呼んでいる。現在加入世帯数三四〇ほど。四丁目自治会の創立がもっとも遅く、昭和四十六年初夏だったようである。四丁目はいちばん早く居住の開始されたところであるが、比較的年輩者が多く、学童を持つ家が少なかったから子どもを介しての家相互の連絡が薄く、それだけ自治会結成が遅れたようである。現在加入世帯数三五〇ほど。
 右のように丁目ごとに結成され、初めは横の連絡のなかった桜ヶ丘の各自治会も、昭和四十八年には桜ヶ丘連合(平成四年に桜ヶ丘連合会に改組)を作って協力体制を敷き、昭和五十年には共同の集会所を設けるまでになった。さらに、平成三年にコミュニティセンターとしての「ゆう桜ヶ丘」という施設が完成してからは、ここを中心に、夏祭りその他、一~四丁目の自治会が共同開催をする行事もふえてきた。
 各自治会の事業をみると、防犯・防火、交通安全対策、環境衛生などでほぼ共通しているが、親睦活動の面では、ハイキング・バス旅行・餅つき大会など、それぞれ自治会独自のカラーを出している。また、桜二会のように、総会の際に有識者を招いて講演会を開催している例もみられ、桜ヶ丘の自治会は地域の住民自治組織として活発だといえよう。