土地利用

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表3-3は『多摩町誌』に掲載されている明治八年の旧八か村の田畑面積であり、それを構成グラフにまとめたのが図3-2である。全般的に畑が多いことがこのグラフでつかめるが、多摩川沿いの関戸村、一之宮村そして大栗川沿いの寺方村は田の比率が高い。表3-4は大正三年発行の『東京府南多摩郡農会史』に示されている大正元年の農業データを拾い出したものである。当時の土地利用は山林が五四パーセントと最も多く続いて畑が二三パーセント、田一三パーセントとなっている(表3-4a)。米の品種別の作付け比率は粳米(うるちまい)が六二パーセントと高いが、陸米の比率も二〇パーセントと高い(表3-4b)。麦は畑とともに田の二毛作として一部作られており、その構成比は一六パーセントほどであった(表3-4c)。他に畑作の多様な作物種別と、畑の中で養蚕用に桑の木を植えていった桑畑の面積を示す(表3-4d、表3-4e)。
表3-3 明治8年旧八か村田畑面積
単位:a
関戸村 連光寺村 貝取村 乞田村 落合村 寺方村 一之宮村 和田村
2716.35 4435.66 1077.1 2372.01 3317.6 4704.12 2756.44 2186.09 23565.37
0.86 6853.75 5246.63 3618.96 6447.1 1955.8 1732.5 5161.1 31016.73
(『多摩町誌』のデータより作成)

表3-4 大正元年の農業統計

表3-4a
土地種別 宅地 山林 原野 池沼その他
面積(単位 a) 17743.3 30850.2 4477.9 72962.6 8982.4 0.3 135016.7
構成比 13.14 22.85 3.32 54.04 6.65 0.0002 100.00

表3-4b
米作付反別 粳米 糯米 陸米
面積(単位 a) 15371.97 2371.25 4958.70 24685.40

表3-4c
麦作付反別 大麦 裸麦 小麦
田(単位 a) 5008.29 842.98 495.87 6347.14
畑(単位 a) 11900.88 4958.70 14876.10 31735.68

表3-4d
作物栽培反別 大豆 小豆 蕎麦 甘藷 里芋
(単位 a) 6545.48 1289.26 4165.31 1785.13 2578.52 2479.35
構成比 28.09 5.53 17.87 7.66 11.06 10.64
 
作物栽培反別 蘿蔔(大根) 豌豆 菜種 蔬菜類
(単位 a) 1487.61 793.39 198.35 991.74 991.74 23305.89
構成比 6.38 3.40 0.85 4.26 4.26 100.00

表3-4e
桑畑及び茶畑反別 桑園反別 見積反別
桑畑(単位 a) 4958.7 2479.35 7438.05
茶畑(単位 a) 99.174 99.174 198.35
(『東京府南多摩郡農会史』より作成)

 表3-5は大正十年の田畑面積とこれの自作、小作別の違いを示したもので、小作地が自作地を上回っていたことがわかる。
表3-5 大正10年多摩村 種類別田畑面積
単位:a
耕地 自作地 8429.8 田小計 19623.6
小作地 10846.7
不耕地 347.1
耕地 自作地 14776.9 畑小計 31791.2
小作地 15546.5
不耕地 1467.8
合計 耕地 自作地 23206.7 田畑合計 51414.8
小作地 26393.2
不耕地 1814.9
(『南多摩郡史』のデータより作成)

 多摩ニュータウンの造成が始まった初期からの土地利用の変化を示したのが図3-3である。昭和四十二年はまだ開発前の土地利用の様子を示しており、山林が四・九二平方キロメートル(四二パーセント)宅地が二・八三平方キロメートル(二五パーセント)、畑が二・四五平方キロメートル(二一パーセント)、田が一・五二平方キロメートル(一三パーセント)の割合であった。山林が大半を占めていたわけで、その山林の構成は昭和三十二年の統計で広葉樹林が八二・八パーセント、針葉樹林が一四・二パーセント、竹林二パーセント、原野が一パーセントとなっていた。大部分が広葉樹林であったことが特徴的である。全てが天然林で、日向側にあたる斜面に多く分布し、椚(くぬぎ)、楢(なら)、樫(かし)などの雑木で構成され、薪炭材として多く利用された。

図3-3 土地利用の変化

 具体的な地形に沿ってどのように土地が利用されたかを示したのが図3-4・3-5・3-6である。それぞれ大正十年、昭和二十九年、昭和六十三年の地形図をもとに作成されたものである。大正十年の時点では養蚕が主要な生業の一つであり、そのための桑園が多く分布している。昭和二十九年になるとこれらの桑園は普通畑に転換され、養蚕の衰退とこれにかわる食糧増産の様子が読みとれる。水田は、ほぼ増減に差がない。昭和六十三年のニュータウン開発後は自然の地形や水系をたどることが難しくなり、大部分が宅地に転換されていることが分かる。それは自然や土地との共生の中で営まれてきた暮らしがおわり、新しい人口の増加ともあわせて全く異なった暮らしが始まったことを示している。

図3-4 土地利用の区分①(大正10年 大日本帝国陸地測量部2万5000分の1地形図より作成)


図3-5 土地利用の区分②(昭和29年 地理調査所2万5000分の1地形図より作成)


図3-6 土地利用の区分③(昭和63年 国土地理院2万5000分の1地形図より作成)