多摩丘陵の浸食谷を樹木にたとえるなら、枝の谷(枝谷)からの湧水が集まり、幹の谷(幹谷)の川となる。この枝の谷を谷戸(やと)と呼ぶことが多いが、幹の谷をも含めて谷戸と表現することもあった。湧水のある谷戸の湿地は自然の状態では葦や蒲などが生え、枯れては堆積して地が次第に堅くなる。しかし、稲作の水を求めて谷戸の湿地を水田としたところは、耕作が続く限り水の切れぬ湿田となっていた。一年中ジクジクとした湿田はドブッ田あるいはウタリ田と呼ばれ、田の底が柔らかく、腰ほどまで入ってしまう深さであった。腰まで入ったのでは作業ができぬので、柔らかい田には松の丸太を渡り木として入れていた。一五センチほどの太さの松丸太を九尺間隔で田へ置き、上を歩いて作業をすると少しずつ沈むが、生木の松は永い年月腐らずにあったという。そうした耕作しにくい田ではあったが、湧水があるため旱魃(かんばつ)には強い田であった。
谷戸田にはそうした湿田のほかに乾田も存在していた。山際はドブッ田であっても、谷戸の川沿いは水はけの良い土地となっていたのである。幹の谷にあたる乞田(こった)川沿いには比較的乾田が多く、落合、貝取、連光寺(れんこうじ)地区の枝の谷にドブッ田が多く存在していた。
谷戸の乾田を潤したのは、湧水からの流れを元とした小河川と、溜池からの流れであった。落合地区を例にとると、青木葉(おうきば)川には五反田の堰・一町田(いっちょうだ)の堰、乞田川には上之根(かみのね)に椚田の堰・銀杏の木前の堰、山王下(さんのうした)には山王前の堰・稲荷前の堰など、所々に堰を設けて田へ水を引いたのであった。現在公園となっている中沢池(大池とも呼ばれた)が溜池であった。以前の池は二つになっており、両方で三反ほどの広さがあった。これは、大降りした時の泥止めを兼ねた池でもあった。
なお、丘陵に刻まれた谷戸は日照の条件は良いとは言えず、湧水の水温も低い。その条件で谷戸田を経営するための配慮も行われていた。例えば、谷戸が南北に伸びていると、田を谷戸の東側へ、道路や住居は西側に配置するというものである。これは、谷戸田の開発と集落形成の間に行われてきた配置であるが、そこで生活する者は、東側の方が陽の当たる時間が長いので、住居より耕地を優先した結果であると理解している。狭い谷戸で耕地をできるだけ広くとるために、住居は山裾を切り崩し、崖に沿うように建てる。そのように建てると谷戸を吹き抜ける突風からも住居を守ることができるという。また、谷戸田は山裾に生える樹木や篠竹・草の陰になりがちなので、春から夏にかけて仕事の合間を見て刈り払うことも必要であった。このことをコサガリ(木障刈り)と呼び、コサになる部分の山裾は山の所有者ではなく田の使用者が管理する慣行となっていた。その慣行は、耕地の間などにノリ(法)と呼ばれる斜面がある場合でも同様で、所有権の境がノリの下にある場合の使用権の境はノリの上であったという。つまり、ノリの下の耕地の障害となる草や物がノリ面にあれば、ノリ下の耕地の使用者が管理するものであったという。