谷戸田の摘田

147 ~ 152
多摩丘陵の谷戸田で行われていた稲作法に、「摘田(つみた)」と呼ばれる伝統的な水稲直播栽培があった。苗代で育てた苗を本田へ田植えする「植田(うえた)」とは異なり、種籾を株状に直播きする稲作である。この摘田は関東地方、鈴鹿地方、南九州地方にも多くの伝承地があり、関東の神奈川・東京・埼玉では、台地や丘陵地に刻まれた谷戸や周辺部の湿田で行われていた稲作法であった(小川直之『摘田稲作の民俗学的研究』)。
 摘田が多摩丘陵の稲作として江戸期に普及していたことを窺(うかが)い知る資料の一つに、八王子市東浅川の石川家の享保五年(一七二〇)からの農事日誌「諸色覚日記」(通称「石川日記」)がある。この日記によると、畑作農家であった同家は享保期末から摘田による水田稲作を始めており、幕末には植田も併用するが、両者併用が一般的になるのは明治十七年からで、明治三十年代には植田が優勢となり、明治末に植田への転換が図られたという(前掲書)。
 明治末から大正期にかけての植田への移行には農会の関与もあったようで、大正三年刊の『南多摩郡農会史』に掲載された稲城(いなぎ)村の平尾青年談話会の事業の報告には「同地の水田は旧来摘田ナリシモ同会員共同シテ之レカ改良ヲ実行シ現今摘田ノ跡ヲ絶ツニ至レリ」と記されている。しかし、植田への移行時期は耕地の状況・経営規模など、地域や家により異なったようだが、大正期には両者が併存する谷戸も少なくなかった。
 落合中組の峯岸家の大正二年と三年の農事日誌「萬年中日記控帳」にも摘田と植田の両者を組み合わせた稲作を行っていたことが記されている(『多摩市文化財調査資料 多摩市の民俗I』)。左記は、その大正二年の日記からの摘田と植田の抜粋である。
  五月  一日 雨降 広谷うなう ないまかく 坂下すく 庸治壱人来ル
      二日 中天気 馬家肥出ス ないふりする
           三山舞 大□ 坂下 白の毛 広谷 白の毛
           ないみ 六月十五日 同十九日
           白の毛 弐割弐升  伊勢錦 弐割弐升
           四割 谷戸池ノ田白ノ毛  大黒 ゼン棚ウエ一枚田
           もち 小池 ウエ二枚トヨダ 五升 国産
      九日 浅雲り 谷戸田上こねる 大ハセ六枚つむ
      十日 浅雨降 谷戸田こねる □□六枚つむ 木葉□□□
     十四日 極上天気 坂下つみ田する 谷戸かく こねる 八ツ入スル
     十五日 中天 谷戸つみ田する 八ツ入り庸治壱人来ル
     十七日 極上天気 広田つみ田スル 三山田くろぬりスル
二十一日 浅雲り 三山田つみ田する 庸治壱人来ル 三山 さよ二十一日より池田四枚つむ 常吉軍次郎お玉内五人九人

    二十二日 晴天 三山田木葉ふる 池田つみ切 三日正月する
  六月 十二日 天気 軍次郎半日山中桑伐 田かく馬肥出ス ない取する庸治壱人来馬代
     十三日 中天気 軍次郎壱人来ルうへ田する 庸治壱人来ル
     十四日 雲り 半日うへ田スル 麦上ケル
     十五日 浅雨降 少しうへ田仕切 八王子ニ行 山中大麦少しかる
 この記載の内、五月二日に「ないふり」とあるのは「苗振り」と呼んだ植田の播種であり、幾種類かの籾(もみ)を播いている。そして、同月九日から二十二日の間に摘田を七日間行い、六月十二日に植田の苗取りをして、翌日から三日間、田植えを行っている。摘田・植田それぞれの田の面積は不明であるが、植田よりも摘田の作業にかけた日数や人数の方が多く記載されているのは、谷戸の湿田が多かったためであろう。また、苗振りをした五月二日に「ないみ」とあるのは、植田の苗取りを忌む「苗忌」の日のことで、落合では、播種から四十九日目のコネイミ(小苗忌)と、五十一日目のオオネイミ(大苗忌)の二度の苗忌があった。日記に六月十五日とあるのがコネイミで、同十九日とあるのがオオネイミである。このネイミには次ぎのような伝承があった。
 「昔、役人が植えころを教えに苗を見に来た。籾を播いて四十九日目に見に来たところ、苗取りには少し早いのでまだ苗をとるなと言って帰った。五十一日目に再び見に来たところ、そろそろ良いので苗をとって植えろと言った。それで四十九日目と五十一日目は苗を見に来る日なので苗取りをするものではない」というものである。苗取りを忌む理由を、田植え時期の指導のために苗を見にくる「苗見」の日であったと解釈したもので、いかにも、摘田から植田へ移行する地域の人々が田植え時期の目安を記憶するにふさわしい伝承となっている。
 大正三年に刊行された『東京府南多摩郡農会史』の「農業生産物の収支」からも、この時期の多摩丘陵における摘田と植田の併存状況の一端を知ることができる。南多摩郡農会が同郡の一九町村に対して明治四十二年より各種調査を行い、各種農産物の収支状況を算出した中に、水田の一反当たりの植田と摘田の収支及び差益が記されている(表3-7)。
表3-7 水田一反当りの収支 大正元年
(『東京府南多摩郡農会史』より)
支出 収入 差引益
本田(植田)甲地 二六円 八五銭 七五円 二四銭 四八円 三九銭
      乙地 一八円 九二銭 四四円  八銭 二五円 五六銭
      丙地 一七円 七七銭 三六円 二〇銭 一八円 五一銭
直播(摘田) 二四円 八六銭 五厘 四〇円 四〇銭 一五円 五三銭 一厘

 それによると、植田は甲地・乙地・丙地の三段階(上・中・下田に相当)とし、良い田ほど手を掛けるので支出が多いが、摘田での支出は植田の甲地ほどありながら、収入は乙地に満たず、差益は丙地より少ないのであった。収入の差は米の収穫量の差である。表3-8のように摘田の播種量は植田の三升に対して八升と多いが、収穫量は一八斗、つまり、四俵半にとどまるのであった。
表3-8 水田一反当りの播種と収穫量 大正元年
(『東京府南多摩郡農会史』より)
播種量 播種作業者 収穫量
本田(植田)甲地 三升 三分 三五斗
      乙地 二〇斗
      丙地 一六斗
直播(摘田) 八升 一人五分 一八斗

 伝承では、摘田の稲が植田に比べて収量が少ないのは、稲の成長に合わせた田の水の管理のできぬドブッ田で顕著であったという。摘田であっても乾田であれば、良い収量を得ることもあったが、地域全体が摘田であると平均収量は下がる。まして、植田へ移行し始めると、摘田は環境の悪い田に残ったので、収量での摘み田の評価はますます悪くなったのである。その他にも、田の状況以外に収量の下がる原因があった。摘田は種籾を株に摘んでいくが、種が散ることもあって株により疎密ができてしまう。また、植田では苗代で種籾を鳥に食われることはあっても、本田へ植えれば株の本数に影響は出ないが、摘田では摘んだ種籾を食われると、株が薄くなってしまう。これらの株調整のために七月にラチガキと呼ばれる作業を行うが、それでも稲株が平均して一定するのは植田の方であった。
 また、摘田を記憶している人々は「摘田は手が掛かる」という。苗代を作らぬ摘田であるのに手が掛かるというのは、先に述べたラチガキに人手を必要としたからであった。『東京府南多摩郡農会史』の「農業生産物の収支」にもそのことが現れている。一反の田の作業ごとに必要な労働量を集計すると一反あたり植田は約三七人、摘田は三九人の延べ人数を必要としていたことになる。苗代を作らぬ摘田であるのに植田を上回るのは、除草(田の草取り)作業で、植え田では三人で済んでいるのに、摘田では七人二分かかっているからであった。この摘田の除草に、手の掛かるラチガキが含まれていたのである。