多摩市域の谷戸田で摘田が行わていたのは、明治期あるいは大正期までであった。
落合では明治三十年ころまで、全ての谷戸田が摘田であったという。それまでは、水切れの悪い田であろうと乾く田であろうと、全てが摘田による稲作が行われていたのである。その後、水切れの良い乾田から植田となっていった。谷戸の唐木田(からきだ)川や青木葉川沿いに一〇間ほどの幅で乾く田があり、まずそうした田から植田へと移行しはじめ、大正五年ころには乾田以外の田も含めて多くの田が植田となり、関東大震災の時には、残る一部の田で摘田が行われる程度となったといわれる。
馬引沢(まひきざわ)では大正五年ころまでは全ての田が摘田であったが、大正十年ころまでに植田へと変わっていったといわれる。
植え田は摘田に比べて収量が増えることから、移行の容易な乾田から積極的に植田へと切り替えていったのである。植田への移行が遅れた田は、川から離れた水切れの悪いウタリ田やドブッ田と呼ばれる湿田で、乾田が裏作に麦を作る二毛作を行うようになっても、このような湿田は裏作ができず、春田(はるた)とも呼ばれていた。
谷戸田での稲作が摘田から植田へ移行した時期には、その対応は家々によって異なったそうだが、養蚕の春蚕と植田との時期的重複を、摘田を継続することで緩和することを意図した農家もあった。多摩市域では、明治末期から昭和初期にかけて養蚕を手掛ける農家が増え、その時期が摘田から植田への移行期と重なったという。米の収量を重視すれば植田の方が優位だが、植田と春蚕、そして畑作を並行して行うと、四月末から六月にかけては大変忙しくなる。四月末に春蚕の掃き立て、苗代の畔塗(くろぬ)り、麦のサク切りが重なる。五月は蚕に桑を毎日与えながら、播種、本田の田うない・代かき、本田の畔塗りと続き、下旬には蚕に与える桑を枝で切る桑切りもある。六月に入ると上旬は春蚕の上蔟(じょうぞく)が続き、それが終わると苗取り、田植え、そして麦刈りが続く。天候がどうあろうとも休む間もない日々が続く季節である。そのため、元来摘田をしていた農家の中には、自家で耕作する田の全てを植田へ移行させてしまわず、摘田の田を残して作業の分散と軽減を図ったという。
摘田は五月中旬に種籾を摘んで直播すれば、稲株を整えるラチガキや田の草取りをする七月中旬まで殆ど手がかからない。摘み田のラチガキや田の草取り自体は手の掛かる作業であったが、それまでの間は人手を養蚕や畑作へ回せる利点があった。そのため、田が六反あると三反を植田にして残りの三反を摘田とし、仕事が一時的に集中することを防いだのである。養蚕は蚕の小さなうちは女性中心の仕事だが、上蔟のころは家族が総出となる。そのために摘田を多く維持した養蚕農家もあったのだという。
図3-11は、大正初期に記された峯岸家の農事日記「萬年中日記控帳」より作成した農事暦である。そこに示されているのは、上記のような摘田から植田への移行期の谷戸の農家の姿である。